ウィキペディアンの読書記録 #3 北村紗衣「嫌われものを授業に取り込む--英日翻訳ウィキペディアン養成セミナープロジェクト」

ウィキペディアンの読書記録第3弾。今回取り上げるのは、シェイクスピア研究者の北村紗衣さんが、大学教育にウィキペディアを導入した事例についての論考「嫌われものを授業に取り込む――英日翻訳ウィキペディアン養成セミナープロジェクト」です。

書誌情報

内容の要約

この論考は「1 ウィキペディアを教育に使うのはなぜハードルが高いのか」「2 なぜプロジェクトを始めたのか」「3 プロジェクトの成果と反省」「4 まとめにかえて:ウィキペディアンの願い事」という4つの章から構成されます。

著者はこの論考について「ウィキペディアが市民社会の情報インフラとなっていることを踏まえつつ、英日翻訳ウィキペディアン養成セミナープロジェクトの教育実践について紹介する。ウィキペディアを用いた他の教育プロジェクトとの比較も通してその成果や課題を検討し、さらにこのような授業を実施する際にどのような問題が発生するのかも考えていきたい」と紹介します。

1 ウィキペディアを教育に使うのはなぜハードルが高いのか

著者はまず、ウィキペディアを用いた教育活動をいくつか紹介し、「長年活動しなければとても覚えられないような細かいルールや独特の専門用語がたくさん」あるため「ウィキペディアを大学教育に応用するのは非常にハードルが高い」と指摘します。くわえて、ウィキペディアではオリジナルの分析が禁止されていたり、一次資料の読解が奨励されていなかったりするのは「研究者には馴染みにくい」と述べます。

著者が紹介しているルールは以下のとおりです。

著者は続けて「授業でウィキペディアを用いることによって問題が生じることもある」と述べ、いくつか事例を紹介します。そして最後に「著作権侵害や質の低い記事の乱発はウィキペディアンにとって管理作業の手間を増やすものであり、記事を読む一般ユーザーにも悪い影響が及ぶ。初心者がウィキペディアを編集する際にルールがわからず、失敗してしまうのは避けられないことではある。しかしながら授業でウィキペディアを使う際は、教員が注意して失敗ができるだけ少なくなるようにしなければならない」とまとめます。

2 なぜプロジェクトを始めたのか

この章では、ウィキペディアンとしても活動する研究者の著者が、大学で実施している授業 [[利用者:さえぼー/英日翻訳ウィキペディアン養成セミナー]] が紹介されます。

この授業は「学生の英語力・調べ物技術の向上と、日本語版ウィキペディアの発展を2本の柱としている」もので、その内容は「ウィキペディアの英語記事を学生に翻訳してもらい、日本語記事として公開するクラスである。原則としてひとりが1本記事を選び、責任をもって翻訳する。記事は基本的に教員指定のリストから選ぶ。単に記事を翻訳するだけではなく、出典が曖昧な箇所や改善できそうなところについては、文献調査も行って内容強化も行う。ウィキペディア内に学生が作った下書きを教員が原文と照らし合わせてチェックし、日本語として意味の通る正しい訳文が完成するまで、記事としてアップロードすることはできない」とのこと。

授業を立ち上げたのは「学生のニーズに応えられる授業を作りたい」という思いからだと著者は言います。具体的には「もっと実用的な英語を教えてほしい」「もっと面白い話を教材にしてほしい」という2つのニーズを、ウィキペディアなら同時に満たすことができると判断したとのことです。

また、近年の英語教育において軽視されている文法訳読が行えること、そして社会貢献ができることも、授業を始めた理由としてあげられます。実際に、学生が立項した [[キング牧師記念日]] という記事のアクセス数が、ドナルド・トランプの失言の直後に増加したというエピソードを紹介し、授業で作成された記事が「おそらく多数の市民の調べ物に役立っている」ことを示します。

3 プロジェクトの成果と反省

著者は「本授業は思った以上の注目を浴び」たと述べます。「すぐにウィキペディアンたちがプロジェクトの存在に気づき、作った記事の不備を修正してくれるようになった」ほか、学生が作成した記事がメインページ新着記事に選ばれたり、著者に感謝賞が贈られたりしたのです。

その一方で、注目度が高まるにつれて、低品質な記事や学生の振る舞いに関する批判も増え、プロジェクトページが荒らされることもあったといいます。ただし、そのような荒らしについては「比較的素早く対処されることが多く、そこまで大きな問題は発生していない」とのこと。また、学生がふざけて不適切な投稿をした際の減点措置を導入した結果、そのような行為は減ったそうです。

なお、著者は「ウィキペディアコミュニティから予想外の温かいサポートを受けられた一方で、授業の実施に際して最も障害になったのは、意外なことに大学のシステムであった」と指摘します。例えば、東京大学で授業を行っていた時は、スケジュールの都合上2ヶ月で記事を仕上げなくてはならなかったため「学生の負担が大きかった」ほか、受講者数も35人と比較的大規模であったため著者の負担も大きく、週に40時間以上の時間外労働が発生したとのこと。他にも、データベースへの学外アクセスができなくなったり、授業についてのメディア取材を受けることが禁止されたりするなどの様々な問題が発生したため、著者は東京大学を辞職し、本務校である武蔵大学でウィキペディアの授業を行うことにしました。

4 まとめにかえて:ウィキペディアンの願い事

最後に著者は「大学教員はもっと積極的にウィキペディアに関わってほしい」「いわゆる『大学改革』のせいで実験的な授業が実施しづらくなっている現状の改善」という2つの願いを記します。私もまったくもって同感です。

感想

この論考の素晴らしい点は、ウィキペディアイベントにおけるファシリテーターの負担を可視化していることだと個人的には思います。図書館によるウィキペディアイベントの開催や、教育機関が授業にウィキペディアの編集を組み込むことの重要性はたびたび指摘されますが、運営時に苦労することや、確認しておくべきウィキペディアのルール等についても詳しく紹介している資料はあまりありません。そのため、この論考は、ウィキペディアに興味がある教育者や、イベントを主催したいと思っているウィキペディアンにとっての貴重なマニュアルになるなと感じました。なお、イベント運営時の苦労については、下記の Diff 記事にも記載があるので興味がある方はぜひご覧ください。

イベント(授業)の経緯や成果をまとめたアーカイブとしても、この論考は大変充実しています。日本語圏におけるウィキペディアイベントの記録は、主に [[プロジェクト:アウトリーチ/一覧]] などで確認することができますが、これほど詳細に記録を残しているものはほぼありません。編集結果のみならず、大学行政や英語教育といった、イベントの背景に言及している点も素晴らしいと思います。

ちなみに、北村さんのプロジェクトは受講者のみならず、他のウィキペディアンにも影響を与えています。例えば Kinstone さんは「【対談】ウィキペディアを編集する芸術愛好家たち」という対談記事にて「編集方法は、北村さんが『英日翻訳ウィキペディアン養成セミナー』のプロジェクトページにまとめている各種マニュアルを読んで学びました」と回想しています。また、私が立ち上げた学生サークル早稲田Wikipedianサークルでも、翻訳に興味のある新入生が入部した際は、北村さんが作成したリストから題材を選ぶことを推奨しています。

上述のとおり、この論考は大変素晴らしいのですが、もう少し深掘りしてほしいなと感じた点が2つあります。

1つ目は、理想的な受講者数についてです。論考には、受講者35名は多すぎるという旨の記述や、「武蔵大学では20人以下の少人数ゼミ方式で授業を実施することができ、現在も継続している」といった記述がありますが、具体的には何名程度が理想と考えているか明記されるといいなと感じました。

なお、ウィキペディア上のプロジェクトページを参照すると、英日翻訳ウィキペディアン養成セミナーの受講者数は以下のように推移しています。

時期人数開催場所
2015年S1ターム(4月〜5月)37人東京大学
2015年S2ターム(6月〜7月)29人東京大学
2015年秋学期34人東京大学
2016年夏学期15人武蔵大学
2016年冬学期15人武蔵大学
2017年夏学期7人武蔵大学
2017年冬学期5人武蔵大学
2018年夏学期14人武蔵大学
2018年冬学期8人武蔵大学
2019年夏学期9人武蔵大学
2019年冬学期9人武蔵大学
2020年夏学期14人武蔵大学
2020年冬学期11人武蔵大学
2021年夏学期7人武蔵大学
2021年冬学期12人武蔵大学
2022年夏学期11人武蔵大学
2022年冬学期3人武蔵大学

参考までに、私の体感を共有します。私はウィキペディアイベントを何度か主催しているほか、早稲田Wikipedianサークルで大学生を教えたり、著者の北村さんが主催する初心者レクチャーにサポーターとして参加したりしている、比較的教育経験のあるウィキペディアンですが、正直なところ、1人で10名程度の初心者を相手にするのは至難の業です。経験的に、私が同時に対応できるのは5名です。

閑話休題。深掘りをしてほしいと感じた点の2つ目は、翻訳をメインの授業とすることで、どのようなタスクを回避できたか、そしてどのようなタスクが生じたかについてです。

ウィキペディアの編集は多様です。日本語版にない記事を翻訳して立項することもあれば、図書館の資料を活用して新しい記事を立項することもあります。また、資料を活用して既存の記事を少しだけ加筆することもあります。

ウィキペディアのイベントや授業を行う際、どのような編集をメインにするかで、注意するべきことは変わります。例えば、図書館資料を活用して新規立項をすることをメインとしたイベントの場合、どのような資料を使うか事前にある程度あたりをつける必要がありますし、参加者がいわゆる「トンデモ本」を活用しようとした場合、止めなくてはいけません。また、資料の記述を正しく反映しているか、そしてそれがウィキペディアのルールを遵守した形になっているかを確認しなくてはいけませんし、スムーズな運営のためにどのような記事を立項するか目星をつけておく必要があるでしょう。

北村さんの授業は、既存の記事(北村さんが事前に選定した、質の高い英語版の記事)の翻訳をメインとしているので、受講者はゼロから記事を書く必要はありません。また、「出典が曖昧な箇所や改善できそうなところについては、文献調査も行って内容強化も行う」とのことですが、文献調査は行わなくても記事の翻訳自体は可能です。そのため、題材の見つけ方や文献の収集方法について、指導を行う必要は(基本的には)ないと考えられるでしょう。

ただし、翻訳をメインとしたことで、題材を選ぶ負担が増大したのではないかと予想されます。質の低い英語記事が翻訳されてしまうのは、ウィキペディアコミュニティにとってあまり好ましくないですし、語学力を測定するのにも相応しくない以上、翻訳する記事を精選しなくてはいけませんからね。上記のとおり、北村さんは翻訳記事のリストを作成していますが、これにはかなりの労力を要したのではないかと推察されます。

質の高いウィキペディア記事を集めるのには、かなり苦労します。実際、私も「これは日本語に翻訳したいけど、出典が明記されていない箇所も多いからやめておこう」と思うことが多いです。北村さんがどのように質の高い英語版ウィキペディア記事を集めたか、気になるところです。

まとめ

大学関係者、ウィキペディアンの双方にとって参考になる、素晴らしい資料だと思いました。ウィキペディア教育に関心のある方は、ぜひ原文をご覧になってください。

参考

大学等の教育におけるウィキペディアの導入事例は、下記のプロジェクトからも確認できます。