インタビュー: ヴィラ・モートルコ、2024ファンクショナリー・オブ・ザ・イヤー、彼女の人生におけるウィキペディアと、彼女の貢献について

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ウィキマニア2024では、ウィキペディア創設者のジミー・ウェールズが毎年恒例のウィキメディアン・オブ・ザ・イヤー賞を発表しました。その中に、ウクライナのウィキメディアンでウクライナ語版ウィキペディアの管理者である、ヴィラ・モートルコの名前がありました。彼女はウィキペディアを裏方で維持してきた功績で、ファンクショナリー・オブ・ザ・イヤー賞に輝いたのです。

ウィキメディア・ウクライナ協会の広報主任イリーナ・ボイコは、ヴィラからウィキペディアおよびウィキメディアプロジェクトへの貢献について、なぜ参加するようになったか、ボランティアを続ける動機は何なのか、話をききました。

ウィキマニア2024でのヴィラ 2024 (photo by Iryna Boiko, CC0)

ウィキペディアでヴィラは何をしているか、そして彼女が誇りに思う貢献は何か

「私が誇りに思っている仕事の一つは、「技術ニュース」です。毎週、開発者の技術情報が簡潔に編集されています。新しいツール、変更すべき事柄、どこに問題があり、どのように解決されたか、などです。このプロジェクトは2013年から始まりました。私はその時からウクライナ語への翻訳を毎週実践しています。」

「私がウィキペディアの記事を書くのは、インターネットで興味深い事柄を発見したときです。時には記事を英語版からウクライナ語版へ翻訳もします。例えば2018年には、ウクライナ語版ウィキペディアにJ・D・ヴァンス(アメリカの政治家で、2024年選挙における副大統領候補)の記事を作りました。最近、トランプがヴァンスを副大統領候補にした後、ある利用者が私に手紙で、この記事は正鵠を射ているとほめてくれました。」

「私は「ボット」のアカウントを持っていて、AutoWikiBrowserを使います。そうすると実際にコードを書かなくても、書いたように見せられます。それは私にとって普通のことです。例えば、フェイスブックが追加したリンクの証拠を削除します。フェイスブックにとってそれは、人々がどこからやってきたかを知るものです。それは読者には見えませんが、ウィキペディアの観点からは、不要なものであり取り除くべきなのです。」

「記事と直接関係のないウィキペディアのことでは、ウクライナ語版ウィキペディアのごく初期に「成長機能」があったのは嬉しい事でした。これは「新規参加者のホームページ」、「指導者のパネル」、そして「指導の全過程」です。新規参加者は自動的に、質問に答えてくれる経験者のリストから、経験豊富なユーザーに割り当てられます。彼らのホームページでは、ウィキペディアに参加したばかりの人が、簡単に仕上げられるようになっています。

私はそれについて早い時期に知ったのを覚えています。そこでは開発者が取り組んでいた試験的なウィキが3-4個ありました。それは初期の段階でしたが、ウクライナ語に翻訳可能なインターフェースだと私は思い、翻訳しました。ストックホルムでのウィキマニア2019の時、開発者の1人が私の所へ来て、ウクライナ語版ウィキペディアを次のパッケージに含めたい、と言いました。彼はどんなツールを持っているか私に説明を始めましたが、私はそれを既に知っており、全部のインターフェースをウクライナ語に翻訳済みだと伝えました。彼は心底驚いていました。これは覚えている中で一番楽しい出来事で、なぜなら私は、ウクライナ語版ウィキペディアがウィキメディア・ムーブメントの中で最良のものをいつも備えたいと思っているのです。ウクライナ語版ウィキペディアでは新規参加者とのコミュニケーションはいつも問題ですが、それを解決してくれる拡張機能を得ることができたのです。

開発者たちは次の拡張計画にウクライナ語版ウィキペディアを含めました。私はウクライナ語版ウィキペディアにこの「成長」の実験を持込み、宣伝したところ、メンバーの賛同を得、指導者に加わり、実行されました。こうしたやり方は初心者には負担が大きすぎると言って反対する人もいましたが、私はこれが良い転換だと思い、特にこれまでの初心者に対する取り組みがうまくいかなかったと比べてもそうだと考えました。この機能はデフォルトで有効となっています。」

ヴィラはどのようにウィキペディアに参加し、最初の投稿をしたか

「私は2009年2月13日金曜日にウィキペディアに参加しました。大学1年生の時で、キーウで英語の本を買えることを知りました。本市場には英語の小説を置いた小さな書店があり、そこでダン・ブラウンの本を買いました。その直前に映画『ダ・ヴィンチ・コード』が公開され、映画館に観に行きました。そして本屋で『天使と悪魔』を見つけたのです。私は奨学金からお金を出してこの本を買い、読みました。当時は寮に住んでいてインターネットは無かったのですが、大学にはコンピューター室があって、そこでいろいろ検索ができたのです。私はそこでダン・ブラウンが何を書いているか読みました。特に秘密結社イルミナティについてです。

そこで私はウクライナ語版ウィキペディアのイルミナティの記事を開いたところ、それはおよそ5年前に作成されたもので、それが何であるかを書いた数行があるだけでした。ロシア語版を開いたところ、もっと多くの文章がありました。しかし私はそれが気に入らなかったので、英語版の記事から翻訳をしました。それに気づいたことを誇りに思い、[編者注:ロシア語版から翻訳しなかったことについて]を書いておきました。

結局、私はかなり大きな段落をウクライナ語に訳しました。典型的な初心者向けで、--注や出典やその他ウィキぺディア記事に加えるのが必要なものを全て省きました。初心者はたいてい最初の記事にそれが必要だと思わないからです。それから、本の内容に現れるいくつかのラテン語の文章について、ページを作っておきました。」

「その後、私は大学での課題と並行して記事を書いていきました。そのうちに、一つの記事に限らず関心がどんどん広がっていきました。2013年のある時、趣味を見つけました。ウクライナの各地方の紋章と旗の記事を作ることです。これは素晴らしいトピックで、誰もやったことがなく、誰にもじゃまされませんでした。地域の紋章は、国の紋章と同じに興味深いものです。だから私は安心して取り組めました。そして、次第に私はウィキペディアをもっと積極的に書くようになりました。私はそれに興奮し、一つの記事を書くだけではなく、紋章のようにトピック全体に関わるようになり、もっと深く掘り下げていき、誰の助けも借りませんでした。

しかしなたら、私は歴史家ではなく、専攻は地理学でした。最初のうちは地理に関した記事を書いていました。例えば、経済的地理的位置に関する記事は、私の書いた記事の中で最もよく見られており、なぜなら毎年学生は皆それについて学ぶからです。

ところが、私はすぐに、自分が得意な分野で記事を書くのは難しい、なぜならその分野での自分の知識にプレッシャーがかかるに気づきました。今私にできることは、理論上私にできることの最良のやりかたではないのです。これは完全主義で、私が今学んでいる途中では気にならないのですが……。そのことが、私が最初から地理学のトピックを書くのでなく、他のものに焦点を当てている理由です。」

「私はずいぶん前にこれを理解したので、私が誰かにウィキペディアについて語る時は、いつもこう言います。あなたがウィキペディアに記事を書くときには、それがあなたにとって十分興味深いものであることが大事です。でもあなたの気持ちにあまり近くないほうがいい、そうすればもし間違いを書いたり記事が修正されたとしても、それほど傷つかないでしょう。あなたが2番目に興味を持つ項目を書いている間は、新しい経験をする機会であり、仕組みを良く知ることができ、間違いをしてもあなたも記事も傷つかず、お気に入りのトピックが望んだようにできるのです。」

ウィキマニア2024でのウクライナの参加者 (photo by Ideophagous, CC0)

いつどのようにヴィラは管理者になったか

「私は2回目の挑戦で管理者になりました。最初の時は、真剣に取り組まなかったのでうまくいきませんでした。そしてその後は、何年も管理者になりたいと思いませんでした。責任や期待を恐れていたのです。管理者の責任の中には私がやりたくないこともあり、それをするようにプレッシャーがかかるのを避けたかったのです。

そして昨年、こうした感情は消え去りました。私は心配するのを止め、今よりも多くの管理者がいるのはいいことだ、と考えるようになったのです。特に、そうすれば現在の管理者になにか起こったとしても、だれかがバトンを受け継いでそれに取り組めるでしょうから。」

「以前には自分が管理者へ質問していたことを、今では自分でできるのです。たとえば、テンプレートにある多くのページを整理しています。もう古くなったり、重複していたりするものです。テンプレートの場所は、もし初心者がまにか間違いをやってしまっても、直接見に行かない限り見つけるのは難しいのです。こうしたゴミはたいてい気づかれないので、私が見つけて削除するのです。」

「ここには何百万種類もの仕事があります」-ウィキペディアで燃え尽きないようにするには

「ウィキメディアンでいるのはとても便利です。というのはここには何百万もの異なったタイプの仕事があるからです。ひとつのプロジェクトが気に入らなかったり飽きたりしたら、全く違う別のに移ることができます。たとえば、ウィキペディアに疲れた利用者は、ウィキソースに行くといいです。そこには全く異なったコミュニティがあり、なぜならこのプロジェクトは異なった見え方と焦点があるからです。ウィキのマークアップのやり方も異なっていて、なぜならウィキソースにはそれ自身のやり方があるからです。それは何の問題もないことです。

もし記事を作るのに飽きたら、私はテンプレートを掘り返すのに移ります。テンプレートに飽きたら、何か面白そうなことをやっている誰かのメタにある記事を翻訳します。あるいは翻訳が必要な記事がないか探します。コモンズへ行って写真などを分類したりもできます。そんな風です。」

ウィキペディアへの投稿がメディアの状況に与える影響

「これまで何回か、ウィキペディアでの名前や姓の綴りを修正するためだけに記事を作ったことがありますが、それはウィキペディアが、メディアを含むほかの情報源から見られているのを知っているからです。

たとえば、私はグレタ・トゥーンベリの記事をウクライナ語で作りました。それはいくつかの出版物で彼女の名前が間違ったウクライナ語の綴りだったのですが、それはおそらくアメリカでの発音に基づいて書かれたようでした。私はそれが正しくないとわかりましたが、もしその時すぐに記事をつくらなければ、彼女の名前はウクライナ語の情報にそのまま載り続けると思ったのでした。

しかしこれと反対の場合もあります。たとえば、EU一般データ保護規則(GDPR)の記事があります。私にとって記事名が正しく書かれることが重要でしたが、なぜならメディアがウクライナ語に翻訳するいくつもの試みがあり、間違った翻訳が採用されるかもしれなかったのです(ウィキペディアは情報源として使われることが多いのでそれは避けたかった)。時には先手を打つ必要があります。既に立項されていた記事に私は追記し、記事タイトルに「決議」と書いたのですが、それは私の間違いだったと後で気づき、公的な翻訳はこれではなかったのす。結局私のせいで、ウィキペディアの記事が再修正される前に、この書類はいくつかの出版物で「規則」のかわりに「決議」が使われてしまいました。ですので、いつも順風満帆だったわけではありません。

「戦争が始まった時、ウィキペディアは私を大いに助けてくれた」-ヴィラの人生でのウィキペディア

「私はウィキペディアからたくさんの友人と知人を得ました。私が最も好きで、私の人生で最も私を助けてくれる人たちを含めて。ウィキメディア・ムーブメントに参加することは価値を共有する気高い入口であり、こうしたボランティアに参加する人々は、普通の人たちよりずっとあなたに寄り添っているのを理解するでしょう。ウィキペディアンとして友達になるのは簡単です。ですから私は記事を書いていない時でも、ウィキペディアを通じて知り合った人と会話するのです。

2022年、ウィキペディアは私を大いに助けてくれました。ロシアの本格的侵攻が始まった時、私はただ座り、どこにも行かない唯一の安定したものにしがみつき、それはどのように機能し、何をすべきか、どこで何をやれるかを知っているものでした。私は座って、ただウィキペディアの編集に没頭しました。

私は午前3時までスタンプリストを書いていた時期もありました。ウィキペディアは仕事でも余暇でも私の全人生だった時期もありました。時がたち、私も年を重ねました。私は自分の関わった仕事量を見つめ、2024年は少ししか関われなかったので、それが最も怠惰で退屈な年だとわかりました。

しかし、ここは私が戻ってくる静かな隠れ家なのです。」

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