ウィキペディアンの読書記録 #26 ばるぼら、さやわか『僕たちのインターネット史』

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稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、ばるぼら、さやわかの書籍『僕たちのインターネット史』の印象に残った記述を紹介したのち、感想を述べます。なお、本書にウィキメディアに関連する記述は登場しませんが、ウィキメディアンの心に残る記述はたくさんありました。

稲門ウィキペディアン会のロゴ。(Uraniwa, CC0)

書誌情報

内容

本書は、著者のばるぼらさやわかが、自身の経験に基づきインターネットの歴史を語る対談本です。本書の特質は、「はじめに」でばるぼらが語る「『僕たち』が知る限りのインターネットの語られ方について話し合うことにした。『いま、何を読むか』ではなく『いま、どう読んだか、どう思ったか』に比重を置くようにした」という言葉に集約されるでしょう。

以下、ウィキメディアンとして印象に残った記述を、年代ごとに雑多に引用します。

80年代編

  • (西海岸思想についての説明)ひらたく言えば、個人の自由が何よりも大事で、国家の役割は最小限でいい、いっそ国家はなくてもいい、くらいに考えている自由至上主義(リバタリアニズム)のこと。アナーキーな個人主義、そしてコンピュータ・テクノロジーと自由市場への信頼をもとにした、アメリカ西海岸発祥のユートピア思想のようなものです。それが如実に表れているのが1996年に発表された「サイバースペース独立宣言」。(21ページ)
  • 西海岸のハッカー思想の前身には60年代のカウンターカルチャーにおけるヒッピーの思想があるんです。(22ページ)
  • 日本ではサブカルチャーとしてのコンピュータと趣味のツールとしてのパソコン通信はあったけれど、その双方とも西海岸思想のようなものとはほとんどつながりを持たなかった、というのがここまでの話です。(29ページ)
  • 90年代に至る頃に一般に近い層も西海岸思想に辿り着く。(46ページ)

90年代編

  • (日本の話)こうしてカウンターカルチャー的なものがサブカルチャーとして消費されていく過程があり、さらにはカルチャーの内容よりもそれをきっかけに起こるコミュニケーションのほうが優位になっていく。これが90年代からゼロ年代にかけて起こったことですね。(79ページ)
  • (90年代後半の話)リチャード・ストールマンたちのフリーソフト運動的な崇高な理念と「この世はすべてタダ」みたいなクラッカー的な発想が、未分化のままグチャグチャに、あたかも関係あるもののように語られる空気がありました。(97ページ)
  • 80年代編でも少し触れたけど、エリック・レイモンドの『伽藍とバザール』が99年に山形浩生さんに訳されたことには重要な意味があったと思います。(97ページ)
  • 「サイバースペース独立宣言」みたいなものもやっぱり理念ではあるんだけど、具体的なアーキテクチャの水準はあまり言及されていないんですよ。そのレベルが「こうすればうまく回る」という具体例 (Linux) と共に『伽藍とバザール』にはあった。おそらく、このあたりがのちのローレンス・レッシグ的な発想につながっていくんだと思います。(98ページ)
  • 80年代編でも話題にしましたけど、アメリカだとヒッピー文化の流れとビジネスマインドがカリフォルニアン・イデオロギーの中で完全に一体化していますからね。(115ページ)
ローレンス・レッシグ。(Robert Scoble from Half Moon Bay, USA, CC BY 2.0)

00年代

  • GPLやクリエイティブ・コモンズのようなオープンソース的な発想の著作権ライセンスも、結局日本にはまったく根付きませんでした。(132ページ)
  • クリエイティブ・コモンズも結局「フリー」の話ですよね。でも、YouTube が出てきたあとくらいから、だんだんクリエイティブ・コモンズが嫌われはじめたような印象があります。要は、YouTuber とかが儲かるようになってくると「いや、このコンテンツは俺のだし、俺はこれで儲けたいし」という人々のほうが強くなってくるってことなんだと思います。(137ページ)
  • LinuxやUNIXの思想を「これ、すごいじゃん!」と再発見していったのが90年代末からゼロ年代の頭でした。でも、その思想はカリフォルニアン・イデオロギーを持つアメリカの文脈から外れると、ビジネスの世界とは必ずしも相容れない部分があった。その結果、日本ではオープンソース的な思想が根付かないままで、「アーキテクチャ」という言葉だけがなんとなく残っていったということでしょう。(139ページ)
  • レッシグも『フリーソフトウェアと自由な社会』を書いたリチャード・ストールマンもそうだけど、彼らの話は結局ソフトウェアの作り手の話なんですよね。あくまでコードを操作できる人にとって意味のある話なんです。だからこそ「情報の自由=言論の自由」という発想も自然なものだった。でも一般ユーザーはコードなんて書けない。それができない人たちがインターネットのメインユーザーになっていくのがゼロ年代なんです。(139-140ページ)
  • 現在の課題は「広告モデルからウェブは以下に脱却するべきか」ということになるのかもしれません。(157ページ)

10年代

  • そこからわかるのは、日本のインターネットのプラットフォームには、80年代編と90年代編で話題になったカリフォルニアン・イデオロギーのような思想が介在しないということです。(203-204ページ)
  • 企業サイトがダメというわけではなくて、そもそも前回も話題になったように、広告モデルを背景にしたPV至上主義がネットの価値観をすべて決定するようになっていることがまずいですよね。(211ページ)
  • 10年代はいよいよ検索で辿り着けないデータが膨大な量になり、「Google検索はもはや使い勝手が悪い」という立場から話すようになってます。(212ページ)

感想

名著でした。しかし、「僕たち」の視界に、ウィキメディアをめぐる動向は入っていなさそうだなとも感じました。特に、ウィキメディアの日本語コミュニティ、そして日本におけるウィキメディアの受容については、ほとんど意識されていないのだろうなと思いました。

ウィキメディアンとしてまず気になったのは、やはり「GPLやクリエイティブ・コモンズのようなオープンソース的な発想の著作権ライセンスも、結局日本にはまったく根付きませんでした」という指摘です (132ページなど)。これを読んで私は「たしかにクリエイティブ・コモンズ・ライセンス自体は人口に膾炙していないかもしれないけど、このライセンスを採用したウィキペディアは日本での知名度も高いと思うし、このライセンスで書くことに誇りを抱いている日本のウィキメディアンは私含め一定数いるんだけどな……」という気持ちになりました。私だったら「ライセンス自体は有名にならなかったが、このライセンスに準拠するサービスは一定の市民権を得た」という書き方をすると思います。

また、出版年(2017年)ゆえ仕方がない面もありますが、著者らはアカデミアにおけるクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの一定の存在感も見落としているのではと感じました。ちなみに、2023年のG7以降、学術論文のオープンアクセス化は特に強く求められるようになり、日本国内でも論文にクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付与する意識が高まったように見受けられます(中には「自分が時間をかけて書いた論文をなぜ無料で公開しなきゃいけないのだ」とおっしゃる方もいるようですが……)。

本書の気になった点としては他にも、アメリカ合衆国内の動向を全て「ビジネス的」とみなす傾向があげられます。日本との対比を際立たせるためのレトリックだと思われますが、端的に言って、ウィキペディアおよびウィキメディア財団という、アメリカ合衆国の特異点をキャッチできていないなと感じました。広告を掲載せず寄付金のみで運営するというストロングスタイルを貫いているにもかかわらず、世界で最も有名と言っても過言ではないインターネット・プロジェクトを運営できてしまっているウィキメディア財団については、どこかで言及してもよかったのではと思います。なお、個人的には、ウィキメディア財団の存在を意識していたら、本全体の論旨が多少変わったのではという気もします。

さらに細かいことを言えば、「西海岸的な思想を強く抱いている日本のウィキメディアンは一定数いるよー」「日本語版ウィキペディアの方針『Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか』にはわざわざ『私たちの目的は百科事典の作成であり、アナキズムがどこまでいけるかの実験ではありません』という文言が記されているのだよー (2024年12月13日 (金) 12:16 (UTC) 版) 」「広告モデルから脱却してるウェブの成功事例、ウィキペディアだよ!」などの感想を抱きました。

長々と述べてきましたが、さらに続けます。おそらく、本書の最大の欠点は、日本語と日本国を適切に切り分けられていないことだと思います。つまり「インターネットにおける日本語の言説」を無意識のうちに「日本におけるインターネットユーザーの動向」とみなす姿勢が感じられるのです。

いうまでもなく、「インターネット」は(例外は多々あれど基本的には)国家を超越します。例えば、アメリカ合衆国に暮らすトルコ人が作成した日本語のウェブサイトに、マレーシアのホテルからブラジル人が日本語でコメントすることができます。また、日本語版ウィキペディアの各種ガイドラインのように、日本に在住していないユーザーが日本語以外の言語で作成したテキストを日本語に翻訳したものも、インターネットにはいくらでも転がっています。正直なところ、「インターネットにおける日本語テキストは、日本在住のユーザーが日本語の思考に基づき作成したものではない可能性も大いにある」という意識が本書にあったかと問われると、かなり怪しいと言わざるをえません。

蛇足ながら、本書が公刊された2017年から、この書評を作成している2024年にかけて、機械翻訳や大規模言語モデルが長足の進歩を遂げました。これはすなわち、日本語を全く理解できない人も、日本語のテキストを容易に生成できるようになったということです。「日本語のテキストを出力しているからといって、そのユーザーが日本在住とは限らないし、なんなら日本語の読み書きができるとも限らない」というリテラシーは、今後ますます重要なものとなるでしょう。

まとめ

色々とコメントしましたが、本書は傑作です。インターネットに関心がある日本語ユーザーには強くオススメします。また、言うまでもないことかと思いますが、この書評は四六時中ウィキメディアのことばかり考えている人間が作成したものですので、かなり偏りがあります。お含みおきいただければ幸甚です。

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