ロシアとウクライナの研究者である高橋沙奈美が著した『迷えるウクライナ:宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』(扶桑社、2023年5月)を読みました。ロシアとウクライナにおける正教会の歴史と現状を全6章にまとめた本で、第2章ではロシア語版とウクライナ語版のウィキペディア記述を比較しているので、その部分の概要を紹介し、感想をまとめてみました。
書誌情報
高橋沙奈美 著. 迷えるウクライナ : 宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い. 扶桑社. 2023年5月, 287p (扶桑社新書 ; 466). ISBN 978-4-594-09316-7. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032761689
概要
キリスト教の三大宗派のうち、ローマ教皇を頂点とするカトリック、16世紀のルターによる宗教改革をルーツとするプロテスタントはよく知られていますが、もう一つの東方正教会(正教会)は、4世紀末にローマ帝国が東西に分裂した後に長い時間をかけて発展してきた宗派です。本書第1章ではこの東方正教会について、ギリシャやロシアなど世俗の国家に対応する領域ごとに教会制度がつくられ、互いに独立しつつ教義を共有するゆるやかな結びつきであることが紹介されています。続く第2章では、10世紀から17世紀までのロシアとウクライナにおける正教会の歴史が述べられ、「キーウ府主教座」のウィキペディア記事について、ロシア語版とウクライナ語版の比較が示されています。「府主教座」というのは、最高位の聖職者「総主教」に継ぐ「府主教」が執務する場、という意味で、中世以来キーウには府主教座がおかれてきました。そして歴史の大きな流れの中でこのキーウ府主教座は、実に複雑な変遷をたどっていくのです。著者はキーウ府主教座の「歴史的正当性を継承しているのはどこなのか、という歴史認識の問題を、ウィキペディアの記述をもとに検証」(p12)しており、「ウィキペディアは匿名の多数の人々によって執筆・編集が可能であり、その記述は可変的である。歴史的事実を知るための事典としては、ウィキペディアは欠点を抱えているが、人々の「歴史認識」の一端を知るためには優れた資料となりうるはずである」(p49)と記しています。
本書第2章第4節「キーウ府主教座をめぐる歴史解釈の対立」の記述冒頭を引用します。
キーウ府主教座をめぐる17世紀までの歴史は、ロシアとウクライナで近年、その解釈が大きく異なり始めている。それは歴史家による専門的な議論を超えて、誰でも編集可能で、かつ参照頻度の高いウィキペディアの記述にも顕著に表れている。キーウ府主教座についてのウクライナ語版の記述は、私が観察する限りでも、2022年から23年の間に著しく変化し、ロシア語版のものとはページの立て方からして異なっている。ロシア語版とウクライナ語版、それぞれの「キーウ府主教座」に関する記述について検討してみよう。(p60-61)
本文ではまず、ロシア語版の項目が3つの時代区分に分かれているのに対し、ウクライナ語版は4つであることを示し、次にそれぞれの時代ごとの記述を比較しています。そして「ウクライナ語版の「キーウ府主教座」の項目は、府主教の称号や教義ではなく、領域とウクライナ・ナショナリズムの問題を重視して書かれているという点に大きな特徴がある。それゆえに、キーウを中心とした現在のウクライナの領域が、歴史的なコンテクスト(文脈)を飛び越えてひとまとまりのものとして存在しているかのように描かれている」(p65-66)という、現状を反映した歴史認識を記載しています。さらに「「キーウ府主教座」に関するウクライナ側の歴史認識は、戦争というプリズムを通して描かれたものであるとはいえ、大国中心主義的な歴史認識に対するアンチテーゼとして、極めて重要な問題を提起するものであることも、また間違いないのである」と結んでいます(p68)。
感想
本書を読んで、2022年2月に始まり現在も続いているロシアによるウクライナ侵攻の背景に、両国の間に長い間横たわっている正教会をめぐる確執があることがよくわかりました。部分的ではありますが、それを記述した両国語版ウィキペディアも、ロシアとウクライナそれぞれの歴史認識を反映していること、そして「中立性」を重視すると言っても一筋縄ではいかないことがよく理解できます。ウクライナ語はもちろんロシア語も日本ではなじみが薄く、正教会についても多くの日本人にはわからないことばかりです。両国の事情と言語に精通し、しかもウィキペディアの特性をよく理解した研究者だからこそ書ける解説は貴重です。2025年1月時点では両方の版にそれぞれ手が加わっており、特にロシア語版は大幅に加筆されている様子です。しかしある時点を区切ってその時点の歴史認識を調べるという手法は、他の分野にも大いに適用できると思われます。このようにウィキペディアを利用した研究が広がることを期待します。
Can you help us translate this article?
In order for this article to reach as many people as possible we would like your help. Can you translate this article to get the message out?
Start translation