ウィキマニアパリの参加レポートを書いている途中で、川越藩のお話が出てきました。この記事もそれなりに思いいれのある記事です。
この記事に関することを紹介していなかったと思い出し、たまには記事執筆に関することについても記録してみようかと思います。
旅行の予習としての記事執筆
ただいま執筆している記事は「佐倉藩」です。せっかく夏休みなので、佐倉の国立歴史民俗博物館に行きたいというのが、執筆のモチベーションとなっています。他にも(旅行の行先)候補としては、小田原藩や古河藩、沼津藩、忍藩なども考えていましたが、調べていく中で佐倉市に一番惹かれました。
最近の記事執筆の題材は、もっぱら藩政史となっています。藩は江戸時代を通じて存在した日本の統治単位で、その単位を軸として、地域の特色が形作られていった例も少なくありません。私がよく例に挙げるのは、佐賀地域(佐賀藩)と唐津地域(唐津藩)の方言の違いです。
私は旅行前にその土地のお勉強をしておきたいタイプです。最近は、旅の「予習」を兼ねて各地の「藩」について学び、ウィキペディアで藩政史の記事を執筆しています。馴染みのない地域の藩を調べていると、歴史や特産品の発祥に出会える面白さがあります。
自分の予習を咀嚼して、「おすそ分け」として記事という形で公開してみる。これもまた、ウィキペディアの楽しみ方の一つでしょう。
川越藩の取材?旅行
せっかくですので、少し本題からは脱線して、取材旅行についても紹介してみます。ウィキメディア・コモンズを眺めていると、使いたい画像が掲載されていないことが少なくありません。結局自分が現地に出向いて写真を撮影しいて、私の下手な写真をウィキペディアの記事に使用する方が速いです。それもまた、取材旅行の一つの目的です。
冒頭で川越藩について触れました。この記事の執筆の動機も、川越市に行ってみたいと思ったことからでした。とあるウィキペディアンが川越に行っている写真を見て、少し興味がわいていました。ウィキペディア25周年イベントに参加するため関東に行く機会があり、延泊して実際に川越市まで足を延ばすことにしました。
そう考えて実際に記事の執筆に取り組み始めたのは、東京に行く1週間前のことでした。大学の春休み中とはいえ、川越藩ほどの規模のテーマが1週間でまとまるはずもありません。履歴を見返してみると、川越藩の歴史も1704年のところまでしか記述が進んでいませんでした。正直勉強不足だったなと感じています。
そんな感じでいつもグダグダな人間です。
川越市で実際に訪れた場所は、喜多院、川越城、時の鐘、川越氷川神社など、川越藩の記事を書いていて気になった場所です。
川越藩の取材旅行である以上、川越城は絶対に外せません。本丸御殿が現存する城は川越城と高知城の2か所しかなく、貴重な遺構です。
南光坊天海が住職をつとめた喜多院の影響力、およびその隣にある仙波東照宮の存在も語る必要があります。
境内を巡りつつ写真をうっかり撮り忘れてしまったのが川越氷川神社です。大火に見舞われた城下町復興のなかで始まったのが、川越氷川祭です。現在も城下町の町割りと蔵造りの町並みがよく保存されており、そのシンボルとして「時の鐘」が今も時を告げています。
また、川越といえばサツマイモの名産地としても知られています。江戸後期に焼き芋が大流行した際、舟運を使って川越から江戸へ大量に運搬されました。現在の城下町にもサツマイモを使ったスイーツがたくさん並んでおり、食べ歩きスポットとして有名です。サツマイモおいしいよ。
川越に行った目的は、観光だったのか、川越藩の記事の「取材」だったのか。たぶん、その両方です。
余談ですが、江戸後期に川越を長く治めた前橋松平家は、徳川家康の次男である結城秀康を祖とする「越前松平家」の一門です。秀康の子孫たちは、津山藩・福井藩(分家 糸魚川藩)・松江藩(分家 広瀬藩・母里藩)・川越藩(のち前橋藩)・明石藩の5つの大藩を治めるにいたりました。このうち、津山藩は記事を改稿し、福井藩は途中で執筆をあきらめました。意図せずして越前松平家ゆかりの藩を渡り歩いており、かつて調べた歴史の流れともう一度再会するような、不思議な縁を感じています。
つながっていく藩
話を元に戻しましょう。佐倉藩の記事の関連項目を見てみると、「川越藩 – 佐倉同様、「老中の城」と呼ばれることのある藩」との記述があります。藩主家の入れ替わりが多い点も含めて、記事の構成や書きぶりは必然的によく似ることになります。江戸を支える交通の要衝であった点も同様です。そして、共通の藩主である「堀田正盛」の存在も忘れてはいけません。正盛は川越藩から松本藩、そして佐倉藩へと渡り歩いた人物でした。また、佐倉藩の歴代藩主を追っていくと、以前記事を書いた唐津藩から/へ転封してきた藩主もいます。
歴史というのは、面白いくらいに「つながり」の連続なのです。今年1月に書いた津山藩の前半期を治めていた森家は改易されてしまいますが、その分家はのちに赤穂藩主となります。この赤穂藩の記事は6月に書いたものですが、意図せず「津山藩の続編」の記事を書くことになっていました。これもまためぐりあわせでしょうね。
記事を書き進めれば進めるほど、思いがけない「つながり」が浮かび上がってきます。私にとっての歴史を学ぶ醍醐味は、まさにこの点にあるのだと思います。昔から家系図を眺めるのが好きなのも、人と人の結びつきを可視化してくれるからでした。これまで書いた記事がどこで、新たなつながりを見せてくれるのか。これから書いていく記事が、既知の題材とどのようなつながりを見せてくれるのか。好奇心がそそられます。
ウィキペディアに興味を持った理由の一つには、つながっているもの同士を、わかりやすくつなげてくれている点にもあると感じています。つながっている相手の詳細をワンクリックで紹介してくれる。さらにそれを突き詰めたのが、ウィキデータでしょう。
ただし、私の願望として一つ。こんな奇妙で美しい関係性というのは、機械的なデータや記号だけで完全には表現しきれるものであってほしくはないと思います。点と点の間にある関係性を見つける喜びは、生身の人間の特権であってほしい。
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