先日、佐賀県の唐津にて、韓国の方々をお迎えしました。なぜ、「唐津」を舞台に選んだのか。本稿では、「唐津藩」という記事執筆のお話をしつつ、まずは唐津という地の面白さを解説してみようかと思います。また、韓国とのかかわりについても補足してみようかと思います。
きっかけ
遡って昨年の11月のお話です。唐津藩という記事を執筆しました。初心者向けウィキペディア編集イベントのサポート役として佐賀に行くついでに何か記事を書きたい、というのがきっかけでした。
話を戻します。現在の佐賀県に該当する地域は、おおよそ3つの藩に大別されます。佐賀藩(およびその3支藩 – 小城藩、鹿島藩、蓮池藩)、対馬藩(田代領、現在の鳥栖市など)、唐津藩(現在の唐津市など)。この3つ(小城藩はすでに改稿していたため、正確には5つ)の執筆難易度、および時間的な余裕を考えてみると、最適な題材は唐津藩でした。
話はずれますが、このウィキペディアタウンでお世話になった司書さんには、今回のイベント企画に関しても大変お世話になりました。会場や資料探しなど、私だけでは難しい部分をサポートしていただきました。ウィキペディアのイベントを運営するにあたって、図書館や司書さんのご協力はやはりかかせません。
九州の譜代大名として
私はよく言う言葉ですが、「佐賀と唐津は藩が違うから、文化もかなり違う」。佐賀藩と唐津藩はまさに正反対の運命をたどった藩でした。

佐賀藩は外様大名に分類される鍋島家が江戸時代を通じて治めたのに対し、唐津藩は九州では珍しい譜代大名の藩で、6大名と入れ変わりが激しく、唐津に根差すことが少なかったといった特徴があります。長崎に関わる業務を担当していたようで、幕閣の要職には着きづらいという藩でした。

唐津藩の歴史は、寺沢家から始まります。寺沢広高は豊臣秀吉の側近として活躍し、文禄・慶長の役の拠点となった名護屋城の近辺の唐津を領することになりました。決していい意味ではありませんが、名護屋城も韓国と深いかかわりがあります。
関ヶ原の戦いでは、その戦功により天草4万石を加増され、12万石の大名になります。しかし、その天草が、皮肉なことに寺沢家お取り潰しのきっかけでもありました。息子・寺沢堅高の代に、島原での一揆が天草に飛び火し、幕府までもが介入する大騒ぎとなりました。島原・天草の乱です。この責任により、堅高は天草領を没収され、のちに跡継ぎなきまま自害し、寺沢家はお取り潰しとなりました。
数度の「三方領地替え」
この後、大久保家・大給松平家・土井家の3家が統治します。5番目の水野家が入封したのは、18世紀のことです。ちなみにこの際、3大名が移動をする三方領地替えでした。

水野家といえば、その最後の藩主・水野忠邦への言及はかかせません。かつて彼は唐津を治める若き大名でした。私が読んだ参考文献では、唐津で藩政改革を行ったものの、あまりうまくいかなかったこともあり、幕政への進出に興味が移ったのではないか?という考察が書かれていました。
前述したとおり、唐津は幕閣への進出には不向き(長崎関連)な藩です。そこで彼がとった手段は、三方領地替えというものでした。私はこの話が好きで一つの記事にまとめることができるだろうと判断し、一つの記事と執筆したものです。大変面白い題材ですので(少なくとも私にとっては一番の自信作)、是非とも記事を実際に見ていただきたいです。要約すると、(表高6万石に対し、実際は20万石を超えていたとも?)裕福と言われていた唐津藩を捨て、江戸に近い浜松藩に移動するように工作をしたという話です。浜松藩は「出世城」とも呼ばれており、その名の通り、水野忠邦はこの後、とんとん拍子で出世をかさねていき、天保の改革を主導するにいたります。
ところでこれは余談ですが、水野忠邦が失脚する一つの原因に、三方領地替えがありました。財政窮乏した川越藩主・松平斉典は、打開策として、当時処遇に困っていた徳川家斉の実子を養子に迎えることで、「見返り」を求めました。その見返りが、裕福とされていた山形藩への転封、さらにもとの山形藩主は長岡藩へ、長岡藩主は川越藩へ転封という三方領地替えでした。もしかすると、水野忠邦がこの対応をとった理由として、彼が実権を握るきっかけとなった三方領地替えが頭に浮かんだのかもしれません。しかしこの三方領地替えは、山形藩領民の反対運動(天保義民事件)により頓挫します。自分が権力を握るきっかけを再現したことで、自分の首を絞めることになるのも、またまた皮肉なものだなとか思います。
2人の藩主 – 長国と長行
水野忠邦の代わりにやってきたのは、小笠原家でした。水野忠邦は素晴らしい置き土産を残してくれました。表高は6万石に据え置きでしたが、そのうち1万石を幕府に上納していたのです。転封による費用に加え、実質1万石の減封。たまったものではありません。さらに続く短命の藩主たち。初代の小笠原長昌には、小笠原長行という跡継ぎがいたのですが、幼少の藩主を掲げると再び転封を命じられる可能性があるため、幕府には存在を隠し続け、気が付けば、5代目の藩主・小笠原長国の時代となっていました。しかも彼、小笠原長行よりも年下です。長行を養子に迎えることになったのですが、養父の方が年下なのは少し奇妙ですね。

この小笠原長行は、跡継ぎの状態で老中になっているというだけでも面白い人物です。老中といえば幕府の中心人物であり、「藩主である」譜代大名から選ばれるしきたりでした。幕末という波乱の時代の中での異例の抜擢は、幼いころから才能があると評価されていたからでしょうか。彼の老中としての働きといえば、生麦事件の後処理として、独断でイギリスに賠償金を支払ったことが挙げられます。また、第二次長州征伐では九州の諸大名のまとめ役となりましたが、戦意の低い大名をまとめきれず、総大将・家茂の死を受け逃亡しました。一旦は老中職を解かれますが、慶喜の意向により再び老中となりました。
しかし長行は所詮跡継ぎの身分でした。戊辰戦争が勃発すると、外様大名(多くが新政府側)に囲まれる唐津藩は、新政府側への恭順を余儀なくされます。その条件として、老中であった長行を絶縁することになりますが、彼は江戸から逃亡し、東北へと転戦することになります。長行は蝦夷まで行くことはありませんでしたが、彼について行った唐津藩士、2代目小笠原長泰の息子・小笠原胖之助らは箱館新選組の一員として、蝦夷地での戦争で生涯を終えました。新政府に赦しを乞うために、長国は唐津で採れる良質な石炭を献上しました。
唐津藩の文化・産業

唐津藩の産業として、記事内では「石炭」「捕鯨」「唐津焼」を紹介しました。また、文化として節立てをするか悩みましたが、「唐津くんち」というものがあります。これを入れ始めると、他の藩の記事でも祭について紹介をしだす必要がある(e.g. 川越氷川祭)ので、唐津藩の記事では言及を避けました。
この中でも特に韓国に関係があるのは、「唐津焼」です。諸説はあるようですが、文禄・慶長の役の際に朝鮮王国から連れてこられた陶工が作り始めた、ないし、彼らが大きな影響を与えたものであるようです。唐津焼の製法や道具にも、朝鮮半島の技術が反映されているようです。
遅れた近代化

隣の佐賀藩に比べると、2週も3週も近代化が遅れていました。正確には、佐賀藩が圧倒的すぎるだけですが。そのため、西洋の学問を唐津藩でも取り入れることになったようです。そうして出来上がった洋学校が「耐恒寮」でした。

耐恒寮は、すべての授業を英語で行っていたようです。その教師をつとめたのが、のちの総理大臣・若き日の高橋是清でした。高橋是清は、留学中にだまされて奴隷契約書にサインをしてしまい、奴隷となっていた時期がありました。そこで鍛え上げた英語能力をもとに、唐津でも独特の指導を行っていたようです。その教え子が、東京駅丸の内駅舎を設計した辰野金吾や、同じく建築家の曾禰達蔵、早稲田大学2代目学長の天野為之、実業家の大島小太郎らでした。
耐恒寮は、廃藩置県による唐津藩廃止から間もなく閉鎖され、存続期間はわずか1年間でした。しかし、その短さにくらべると、多くの人材を輩出したようにも感じられます。
イベントと唐津藩の影
イベントで訪れた場所は唐津藩ゆかりの地が多いです。
まず1日目に散策した場所といえば、唐津藩の城下町です。私が案内した旧唐津銀行本店は、耐恒寮出身の辰野金吾が設計し、その初代頭取を務めたのは同窓の大島小太郎でした。大島小太郎が住まった家こそ、1日目の編集会場に利用した「旧大島邸」です。

もう一グループが巡った場所は、唐津くんちの「曳山展示場」でした。城下町を練り歩く唐津くんちの曳山の始まりは、唐津藩時代(初代小笠原長昌の時代)です。14体のうち11体は唐津藩という括りの時代に作られたものでした。

また、その道中で見かけた白くライトアップされたお城は、唐津藩政の拠点となった唐津城です。
2日目に訪れる予定だった「鯨組主中尾家屋敷」というのは、唐津藩の捕鯨文化で隆盛を極めた中尾家のお屋敷でした。余すところなく利用されたという鯨について解説がありました。名護屋城に関しては説明不要でしょう。
もう一つのかかわり: 加唐島

私が唐津を選んだ最大の理由は「加唐島」です。百済の王・武寧王が生まれたという伝承が残る地で、当初は伝承レベルとされていましたが、武寧王陵の発見により、その伝説の信ぴょう性は高まっています。武寧王陵の棺には、コウヤマキという日本にしか自生していないとされる植物が使われていたこともその理由の一つでした。

百済中興の祖と呼ばれる武寧王自体も、日本とのかかわりが深い人物です。続日本紀によれば、桓武天皇の実母・高野新笠は、武寧王の子孫であるともされています。また、武寧王の息子・聖王は、日本に仏教を伝えた王ともされています。

日本の唐津で生まれたという伝説が事実でしたら、それはそれで興味深い。日本と韓国の友好イベントとしてはぴったりの場所だろうと感じました。実際に、加唐島では武寧王生誕祭というイベントがあり、韓国からも参加者が訪れているようです。加唐島の防波堤にも韓国との交流を強調したイラストがちらほら。
終わりに
以前私が執筆した2つの記事、唐津藩と三方領地替え (1817年)を紹介しつつ、唐津でのイベントや唐津と韓国とのつながりにも言及してみました。
最後に、小笠原長行の辞世の句を紹介しようかと思います。簡単に調べてみましたが、典拠が見つからず、もしかすると俗説なのかもしれませんという注意書きを。
夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢
小笠原長行の辞世の句とされる
7私には解釈がわからず、いろいろなブログを流し読みしてみました。その中の一つの解釈に、長行のクーデター(唐津藩の記事でも言及しています)と重ねたものがありました。「もしもあの時こうしていれば…」だったのでは?とか。
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