ウィキペディアンの読書記録 #21 加藤諭、宮本隆史「デジタル時代のアーカイブの諸系譜をたどるために」

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稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、加藤諭、宮本隆史「デジタル時代のアーカイブの諸系譜をたどるために」における、ウィキメディア・プロジェクトに関連する記述を紹介したのち、感想を述べます。

Uraniwa, CC0

書誌情報

  • 加藤諭、宮本隆史「デジタル時代のアーカイブの諸系譜をたどるために」『デジタル時代のアーカイブ系譜学』みすず書房、2022年、3-23ページ。ISBN 978-4-622-09555-2.

内容

この論考には、ウィキメディア・プロジェクトに言及した箇所が2つありました。そこに至る議論と併せて紹介します。

その1

著者は「アーカイブなるものの概念を定義しようとする議論に共通する特徴は、アーカイブが何らかの規範にしたがって編成され構築されるべきものとする姿勢であろう」と指摘し、いくつかの具体例を示します(7ページ)。そして、続けて以下のように述べます。

ここで確認しておきたいのは、アーカイブの意図を議論の前提とすることがつねに可能とは限らないということである。実際のところ、わたしたちの日常生活は、作ろうと意図しないでできてしまった情報の集積が「アーカイブ」として扱われるような事例に満ちている。たとえば、ウィキペディアで使われる画像は、ウィキメディア財団が運営するウィキメディア・コモンズのサイト上で検索や閲覧ができるようになっている。これは、アーカイブなのか?「アーカイブ」として利用する人々がいることは確かだろう。しかしそれではこのアーカイブは誰のどのような意図によって作られているといえるのか?ウィキメディア・コモンズの情報の集積は、特定の誰かの意図によって作られたアーカイブとは考えにくい。

前掲書、7-8ページ。

その2

また、著者は「デジタル時代におけるアーカイブとアーカイブでないものの境界的な事例について実験的に考えてみよう」と宣言し(8ページ)、アーカイブとされるものの具体例として、インターネットアーカイブ、GitHub、そしてウィキペディアをあげます。そして、以下のように述べます。

こうしたものはアーカイブだろうか?履歴を取る意図は、伝統的なアーカイブとは異なるかもしれない。しかし、アーカイブとして利用することを利用者に促しているとは少なくともいえるだろう。利用者は、欲すれば過去の変更履歴に遡って、コードや記事を確認することができる。ウェブ上で「アーカイブ」と言うとき、多くの人々には、伝統的な文書館よりこうした履歴のことを想像しているのではないか。

(略)

こうした事例の検討からいえるのは、広く「要件」とされるような特性をすべて十分に満たすような事例を見つけることの難しさであろう。それでも人々はこうしたものを「アーカイブ」として取り扱っている。言い換えれば、「アーカイブ」として扱われることをひとに促すような情報の集まりが存在すると想定して、わたしたちは行動しているとしかいいようがない。つまり、環境としての情報の集積が行為する者に与えるアフォーダンスとしてのアーカイブの問題がここにある。しかも、その「アーカイブ」なるものは、これらの事例から明らかなように、異種混交的なものとしてわたしたちの目の前に立ち現れている。

前掲書、9-11ページ。

感想

正直なところ「言いたいことはわかるけど、詰めが甘いな」と感じてしまいました。「アーカイブとは確固たる定義が存在するような実体ではなく、構築されるものであり、その系譜を辿ることが重要なのだ」という趣旨の主張には大いに賛同するのですが、その定義の「揺らぎ」を示すために取り上げる具体例の説明が大雑把なように思います。

私が特に違和感を覚えたのは、先述の「ウィキメディア・コモンズの情報の集積は、特定の誰かの意図によって作られたアーカイブとは考えにくい」という一文です。たしかに、ウィキメディア・コモンズは不特定多数のユーザーが参加するプロジェクトであり、いわゆる伝統的なアーカイブとは大きく異なりますが、何の意図もなく運営されている無法地帯というわけでもありません。資料を寄稿するには特定のクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付与する必要がありますし、各種資料はカテゴリ等を用いて整理されます。また、不適切な資料がアップロードされている場合は、コミュニティの議論によって削除されます(これらの仕組みに関心がある方はウィキメディア・コモンズ「Commons:ようこそ」などをご確認ください)。

つまり、ウィキメディア・コモンズは「特定の誰かの意図によって作られたアーカイブ」ではないものの、少なくとも「コミュニティの意図(ガイドライン等)に賛同したボランティアたちが作り上げているアーカイブのようなもの」とはいえるでしょう。

私はしばしば「あ!この喫茶店の写真がウィキメディア・コモンズにない!今度行くときに撮影しておかなきゃ」という「強い意図」をもってウィキメディア・コモンズを編集しています。それもあってか、本論考を読んで「ウィキメディア・コモンズのガイドラインや、それを編集する人間の行動原理についての解像度を高くした上で、比較・分析を実施してほしかったな」と感じてしまいました。

筆者 Eugene Ormandy が撮影し、ウィキメディア・コモンズにアップロードした名曲喫茶ネルケンの写真。ウィキペディア記事「名曲喫茶ネルケン」を立項した際に活用した。(Eugene Ormandy, CC BY-SA 4.0)

余談ですが、実はウィキメディア・プロジェクトに関係ない記述でも、似たようなことを感じました。例えば「ネットワーク化されたデジタル時代の情報環境において、情報は集積するものなのだろうか。すべての情報が潜在的に接続しうる環境において、情報が集積すると述べることにどのような意味があるのだろうか」という指摘を目にしたときは「ユーザー視点ではあるけれど、実際にデジタルアーカイブを構築する人間の視点は全く反映されていないのでは……」と感じました(8ページ)。また、思わず本に「ストレージは……?」と書き込んでしまいました。

とはいえ、私が上記のような細かい点をダラダラと述べたのも、アーカイブというものが「異種混交的なものとしてわたしたちの目の前に立ち現れている」所以なのかもしれません。今後も勉強を続けたいところです。

まとめ

加藤諭、宮本隆史「デジタル時代のアーカイブの諸系譜をたどるために」における、ウィキメディア・プロジェクトに関連する記述を紹介したのち、感想を述べました。批判が多くなりましたが、本論考は大変興味深いので、デジタルアーカイブに関心がある方はぜひ。

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