ウィキペディアンの読書記録 #6 北村紗衣『英語の路地裏』

ウィキペディアンの読書記録第6弾。今回は北村紗衣『英語の路地裏 オアシスからクイーン、シェイクスピアまで歩く』における、ウィキペディアに関する記述を紹介します。なお、著者の北村さんは [[利用者:さえぼー]] として活躍するウィキペディアンでもあります。

ウィキペディアに関する記述

本書は、英語が用いられた文学や音楽を取り上げ、その文化的背景や文法を紹介する楽しい本です。そんな本書には、ウィキペディアに関する記述が4つありました。

路地裏。Wikimedia Commons [[File:New Way Ghaut.jpg]] (The joy of all things, CC-BY-SA 4.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:New_Way_Ghaut.jpg

その1 ウィキペディアにおける三人称単数 they の使用例

三人称単数としての they を解説する章で、ウィキペディアの記述が紹介されていました。少し長くなりますが、当該箇所を引用します。

英語圏のノンバイナリの人の間では、自分一人のことを指すときでも三人称としては they, them, their を使ってもらう文化があります。スミス(引用者注:ノンバイナリであると公言した歌手のサム・スミスのこと)が自分について they や them を使ってほしいと発言したのは、こうした習慣に沿ったものです。この場合も通常、動詞の活用は三人称複数の they に合わせるので、be 動詞を続ける際は、they are … や they were …となります。

さて、では正しく they を使ってスミスのキャリアを書き表すと、どうなるでしょうか?誰でも編集できる百科事典である英語版ウィキペディアの2019年12月21日時点の記述を見てみましょう(太字は筆者による)。

At the 2015 Billboard Music Awards, Smith received three Billboard Awards: Top Male Artist, Top New Artist, and Top Radio Songs Artist. Their musical achievements have also led them to be mentioned twice in the Guinness World Records.

太字部分が they を活用した代名詞が使われているところです。この時点のウィキペディアの記事では、記事冒頭の文章の最初に “Their” が出てくるところに解説の注があり、スミスがノンバイナリで代名詞は they を使用していると書かれています。ウィキペディアのような一般向けの文章でも、すでにノンバイナリの人に they を使うというのは当たり前になってきています。しかし、they は複数形だと頭にたたき込まれている学習者は、they が指すのがこの場合は単数の人であることを読み進めるうちにうっかり忘れてしまうかもしれないので、注意が必要です。

北村紗衣『英語の路地裏 オアシスからクイーン、シェイクスピアまで歩く』アルク、2023年、96-97ページ。

なお、参照したウィキペディアの版は以下のように明記されています。ウィキペディアの版を指定する方法はいくつかありますが、著者は oldid を用いていますね。

‘Sam Smith’, Wikipedia, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Sam_Smith&oldid=931440909, accessed 16 April 2023.

前掲書、96ページ。
サム・スミスの “Unholy”

その2 ウィキペディアにおける文法ミス

名詞の単複について解説する章でも、ウィキペディアが登場していました。当該箇所を引用します。

単数形と複数形の区別はややこしく、英語学習者にとっては頭が痛い問題です。しかし、実はネイティヴスピーカーでも、この区別には混乱することがあります。普段からウィキペディアを編集している私は、英語版ウィキペディアで、おそらくは英語話者が書いたと思われる、名詞の単複や句読点が変な文によく出会います。

前掲書、122ページ。
ザ・キラーズの “Human.” 名詞の単複がおかしい歌詞が登場します。

その3 ウィキペディアにも掲載される有名な例文

否定の強調としての「ダブルネガティブ(1文に2回以上、否定語が登場する文)」を紹介する章でも、ウィキペディアが登場します。ダブルネガティブとして有名な ‘Ther nas no man nowher so vertuous’ という『カンタベリー物語』の一文が、英語版ウィキペディアの [[Double Negative]] でも紹介されているという内容です。当該箇所を引用します。

中英語なので難しいのですが、一度声に出して読んでみると、多少わかりやすいかと思います。’Ther’ は ‘There’、’nas’ は ‘ne was’ の短縮で ‘was not’ と同じ意味、’nowher’ は ‘nowhere’ です。’vertuous’ は ‘virtuous’ で、ここでは現代英語の「徳高い」よりもむしろ「力強い」に近い意味でしょう。

現代英語に「直訳」」すると、’There was not no man nowhere so virtuous.’ となります。nas、no、nowher が否定語ですが、これは否定の強調になり、「あんなに強かった男はどこにもいなかった」という意味になります。現代語で書くと、’There was not any man anywhere so virtuous.’ のような言い方が普通です。この文はダブルネガティブが目立つ文として有名で、文法書の『アメリカン・ヘリテージ』からウィキペディアまで、ダブルネガティブの解説に頻繁に登場します。

前掲書、191-192ページ。

参照したウィキペディアの版は以下のように明記されています。こちらでも odlid が用いられていますね。

‘Double negative’, Wikipedia, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Double_negative&oldid=1138069317, accessed 16 April 2023.

前掲書、192ページ。

余談ですが、私はウィキペディアの版を指定するときは oldid にくわえ、時刻も表記するようにしています(「2022年X月Y日10:00 (UTC) 版」など)。というのも、oldid を用いた場合、いつ頃に作成された版か直感的にわからないからです。例えば上記の例では、URL にアクセスすれば「2023年2月7日 (火) 21:45 (UTC) 」であるとわかりますが、URLの文字列を見ただけでは分かりません。

マーヴィン・ゲイとタミー・テレルの “Ain’t No Mountain High Enough.” タイトルがダブルネガティブ。

その4 関係代名詞の非制限用法について

関係代名詞の制限用法と非制限用法について解説する章でも、ウィキペディアが登場していました。

関係代名詞の制限用法と非制限用法は、ネイティヴスピーカーでも文章を書き慣れていない人はよく間違います。ウィキペディア英語版などを見ると、固有名詞に関係詞が係っているのにコンマがない文などがたまに見つかります。発音上はコンマがあってもなくても変わらないため、うっかり忘れる人が多いようです。

前掲書、200ページ。

ウィキペディアンらしい記述

本書のあとがきに、素敵な記述がありました。

この本を最後まで読んでくださった皆様には、是非、ふだんからいろいろな英語のコンテンツに触れて、それを自分で勝手に教材にしていただければな……と思います。人から教えてもらうのを待つのではなく、ちょっとした表現についても積極的に「なんでこれはこうなるの?」「これを他人に説明するとしたらどう言えばいい?」と疑問を持ち、納得いくまで調べてみてください。それが英語力の向上や維持につながります。そして自分で教材を発見したあかつきには、ほかの人とシェアして楽しんでいただけると、勉強がより興味深いものになるのではないかと思います。皆様が勝手に教材を作ってシェアして下さるのを、楽しみにお待ちしております。

前掲書、247ページ。

これを読んで「北村さんらしいな」と思いました。というのも、著者の北村さんは、他の著作でも似たようなことを言っているからです。

皆さんも著者が探していることを探していろいろな作品を深く掘り下げ、その成果を他の人と交換してみてください。この本を読んでくださった皆さんが、チョウのように読み、ハチのように書けるようになることを心からお祈りしています。

北村紗衣『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』筑摩書房、2021年、225ページ。

この本に収録されている論考は全てフェミニスト批評がベースになっている。私が今までに出した他の本もだいたいそうだ。原稿依頼の大部分もフェミニスト批評でお願いします……というものだ。

私がたまに受ける批判として、批評がどれも同じやり方じゃないか……というものがある。こういう、ひとつのことだけが得意でそれをやっている人を英語で「ワン・トリック・ポニー」 (One trick pony)、つまり「一芸の子馬」という。

(略)

私はあまり社会性のない子馬だが、他の子馬がトリックを磨いているのを遠くから見るのは楽しいし、励みになる。もしこれを読んでいる人の中に我こそはと思う子馬がいれば、是非トリックを磨いて障壁を跳び越え、空を飛んでほしい。

北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』文藝春秋、2022年、256、260ページ。

上記の記述はどれも、読者の主体的な行動を促すものと言えるでしょう。読者を単なる「情報の受け手」とみなし、一方的に知識を押し付けるのではなく、読者の主体性を認め、積極的な行動を推奨しています。

この姿勢は、きわめてウィキペディアン的です。というのも、「誰でも編集できる百科事典」であるウィキペディア、およびその編集者であるウィキペディアンは、常に「皆さんもぜひ編集をしてください」と呼びかけているからです。

ウィキペディアは、信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです。あなたは、ウィキペディアをご覧になるだけでなく、今すぐにでも記事の編集に参加することができます。特別な参加資格はありません。編集作業には、あなたのパソコンのウェブブラウザ以外には特別な道具は必要ありません。これまでにない人類の知的遺産を育むこの壮大なプロジェクトにぜひ参加してください。あなたが関心のある分野、得意とする分野において、あなたの力を貸してください。

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:ウィキペディアへようこそ]] より。2023年6月10日 (土) 03:46 (UTC) 版。2023年7月2日アクセス。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:ウィキペディアへようこそ&oldid=95557237

まとめ

北村紗衣『英語の路地裏 オアシスからクイーン、シェイクスピアまで歩く』における、ウィキペディアに関する記述と、ウィキペディアン的な記述を紹介しました。

北野武とビートたけし、武藤敬司とグレート・ムタは「別人だが同一人物 / 同一人物だが別人」という複雑な関係にありますが、批評家・北村紗衣とウィキペディアン [[利用者:さえぼー]] にも、近いことが言えると私は思っています。本稿では、北村紗衣さんの著作に登場する「ウィキペディアに関する記述」にくわえ、「ウィキペディアンらしい記述」も紹介しましたが、これは批評家・北村紗衣の著作に顔を出す [[利用者:さえぼー]] の姿を捉えようと試みた結果でもあります。

私は批評家ではないので、北村紗衣さんのような面白いエッセイは書けませんが、[[利用者:さえぼー]] に編集のイロハを教わり、イベントなどでたびたび協働してきたウィキペディアンの視点から、この稀代の批評家 / ウィキペディアンのアーカイブを作成しておく必要があるだろうと思い、この記事を書きました。

本稿が、ウィキペディアに興味のある方、批評家・北村紗衣に興味のある方、ウィキペディアン [[利用者:さえぼー]] に興味のある方のお役に立てば幸いです。