セクシュアル・マイノリティ関連の記事を執筆する

先日、「Wikimedia_Japan-Malaysia_Friendship」の「ASEAN-Japan_50 Editathon」に参加した折に、[[セクシュアリティ・ムルデカ]]を立項しました。続けて、[[北京クィア映画祭]]を立項し、[[吉屋信子]]を加筆しました。見ていただければ分かる通り、どれもまだまだ書くべきことある未完成の記事ですが、どのようなことを考えながら記事を執筆したか、自分のための備忘録を兼ねて書き残しておこうと思います。

これらの記事は、どれも何らかの形でセクシュアル・マイノリティに関わるものです。実はWikipediaの編集は久々だったのですが、改めてどういう記事を書きたいか考えた時に、セクシュアル・マイノリティの運動や関連する人物・作品・出来事などの記事(またゆくゆくは概念・用語の記事)を書きたいと思ったからです。理由は最後に書いています。

[[セクシュアリティ・ムルデカ]]

[[セクシュアリティ・ムルデカ]]は、まず英語版を翻訳した上で、日本語文献(論文・書籍・ネット上のインタビュー記事など)から記述を補強しました。出典がきちんと附されている別言語版を翻訳した上で、自分の第一言語の文献を足して記事を整えるという方法は、比較的少ない作業量でよい記事が作れるのがいいですね。

この記事の「背景」節は私が付け足したところで、こうした運動が生まれてくる背景として、マレーシアにおける性的少数者をめぐる状況をまとめておきました。これを書くときに気をつけたのは、「イスラーム的」という言葉の使い方です。確かに、ムスリムが多数派の国家の多くに性的少数者を認めない法令がありますが、ムスリムでありかつLGBTであるという人々は当然存在しますし、コーランで性的少数者への抑圧は正当化されていないと解釈する人もいる以上、「イスラーム=反LGBT」というレッテルを貼るのは[[Wikipedia:中立的な観点]]に反していると考えられます。マレーシアで規制が強化されていくのは1980-1990年代のことで、背景には複層的な要因があり、ここを雑に書くと、いわゆる[[ピンクウォッシング]]への加担にも繋がってしまいます。よって、事実としてのマレーシアの状況を整理しながらも、「イスラーム的」という言葉の使い方には気をつけて、丁寧に記述するよう心がけました。

[[北京クィア映画祭]]

[[北京クィア映画祭]]も、まず英語版を翻訳した上で、日本語文献(論文・ネット記事)から記述を補強しました。中国語のウェブ新聞の記事をいくつか発掘できたので使いました。個人的には、何度か観に行ったことがある[[関西クィア映画祭]]とのつながりを発見できたのは嬉しかったです。この記事でも「沿革」と「背景」節を追加し、大きな流れを掴めるように工夫しました。現在まで続いている映画祭なのに2014年までしか書けていないのは、私の力不足です。

さて、「セクシュアリティ・ムルデカ」と「北京クィア映画祭」は、どちらもボランティアで立ち上げられたLGBTQIA+系の運動の一つです。二つの記事を作っていて感じたのは、セクマイの運動に関する記事を書くといっても、ざっと調べた文献だけで書こうとすると、同性愛に関する記述に偏ってしまう面があることです。

この状況は、社会全体は言うまでもなく、「LGBT」「フェミニズム」を掲げる運動の中でさえ、シスジェンダーの同性愛が中心的に扱われ、他の問題が周縁に追いやられてきたという歴史があることと無縁ではないでしょう(そしてそこに人種差別・民族差別などさまざまな抑圧が交差していくことも常見される現象です)。このことについては、『トランスジェンダー問題 : 議論は正義のために』(ショーン・フェイ著 ; 高井ゆと里訳, 明石書店 2022)や、『ホワイト・フェミニズムを解体する : インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』(カイラ・シュラー著 ; 川副智子訳, 明石書店 2023)といった書籍に詳しいです。

こうしたことを踏まえて、[[セクシュアリティ・ムルデカ]]ではMTFトランスジェンダーの活動がかつてあったことや、少数民族の権利を求める運動とも関わりがあったこと、[[北京クィア映画祭]]ではバイセクシュアルをテーマとする回があったことの記述が文献にあったので意識的に入れました。ただまだまだ記述不足だと考えています。むろん、Wikipediaは「信頼できる情報源」(主に二次資料文献)に基づいて書かないといけないので、文献になければルール上書けないのですが、少なくとも運動の背景の説明(政治・社会的状況など)のところはまだ整理しきれていない文献がたくさんあるので、書き足したいところです。

[[吉屋信子]]

[[吉屋信子]]は、近所の図書館に関連書籍が数冊入っていたので、その情報をまとめて加筆したといったところです。場所によるでしょうが、地域図書館は近代日本文学に手厚いという印象がありますね。もちろん「経歴」節はまだまだ書くことがありますし、「評価」節などは雑なまとめになっているので、加筆をお待ちしています。

この記事を書いていて考えたのは、「他人のセクシュアリティを記載する」ことの問題についてです。英語版のウィキプロジェクト「LGBT studies」には、[[Wikipedia:WikiProject LGBT studies/Guidelines]]というページがあり、性的少数者の人物記事を執筆する際の注意事項がまとめられています。紹介を兼ねて、冒頭部分の要旨をざっと訳してまとめておきます(oldid=1185558734 のバージョンに基づく)。ただ、かなり大幅に省略して雑に訳しているので、できれば原文を読んでください。

  • ある人物の記事を書くとき、その人の性自認・性的指向についての記述に過度に重点が置かれないようにする。「○○は同性愛者であることを公言している」と書くだけで十分なことが多い。
  • カミングアウトしたという事実自体に特筆性がある場合でも、記事では冷静かつ中立的に書くべき。特に「2009年5月、ABCニュースのインタビューで、○○はトランスジェンダーであることをカミングアウトした」などと文脈を追加するとよい。
  • 直接的であれ間接的であれ、主題に対する嘲笑・侮蔑を目的としてはならず、Wikipediaがアウティングの場にならないようにしなければならない。
  • ジェンダー・アイデンティティ、セクシュアリティについて記述する際には「信頼できる情報源」が必要である。特に存命人物は、本人自身が公に表明している場合にのみ、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーとして分類される。
  • 死亡した人については、その人が同性・異性との特筆性のある関係が文書として残されていた場合、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルなどとして分類される可能性がある。
  • インターセックスは身体的な性的特徴に関連する生物学的状態で、医学的事実である。インターセックスの人は、男性・女性・ノンバイナリー・Xジェンダーのいずれでもある可能性があり、その人がインターセックスであることと自身のセクシュアリティを関連させることもあれば、医学的症状として認識することもある。よって、LGBTのページとインターセックスのページの間の相互関係は制限するように注意されている。
  • トランスジェンダー・ノンバイナリーの人物記事について、出生名や前名が異なる場合でも、特筆性がある場合以外は記載しない。

他にも色々書かれており、役に立つところもありますが、まだ議論は不十分であるように思います。ほか、存命人物の記事のカテゴリーについては、[[Wikipedia:Biographies_of_living_persons#Applicability]]でも注意されていますが、こちらもそれほど詳しくはありません(日本語版の[[Wikipedia:存命人物の伝記]]には記述がないようです)。

この問題について、日本語版Wikipediaではまとまった方針は示されていないようですが(見落としていたら教えてください)、[[プロジェクト‐ノート:LGBT#歴史上の人物]]、また同ページの「{{Portal LGBT}}の人物記事への貼り付けについて」節などで議論されたことがあります。(なお、このページに載っている他の議論には一部差別的(と私には感じられる)記述があるので、閲覧の際にはご注意ください。)

さて、こうした問題について論じた日本語文献として、杉浦鈴「クィアな死者に会いに行く:前近代のジェンダー/セクシュアリティを問うための作法」(『療法としての歴史〈知〉:いまを診る』方法論懇話会編, 森話社, 2020)があります。主題は異なるのですが、考え方を援用できる部分があるので紹介します。

杉浦氏は、近年の政治言説や歴史研究の具体例を挙げ、「過去を生きた人のセクシュアリティを一方的に推し量る行為について問い直す必要性がある」(p.171)とし、まず自認が確認できる場合を以下のように述べます。

ジェンダー/セクシュアリティには、自認(自分がどのような性を生きていると認識しているか)と他認(他者から見てどのような性を生きているように認識されるか)という二つの視点がある。自認と他認にずれがある他者と関わるとき、尊重するべきは明確に自認である。

(杉浦鈴, p.173)

逆に言えば、自認が明らかにされていない場合、むやみに推測して書くのは危険ということになります。そして、前近代の人物の場合は、自認が記されることはほとんどありません。杉浦氏は以下のように述べます。

しかし過去の時空間、特に近代以前を生きた人の性について分析する場合、自認について書かれた史料は極めて乏しい。そして本人以外によって記録された行動や外見についての記述を分析して導き出されるのは、「その人物が観察者の目にどのように見えたか」のみである。他認と自認を取り違えて、史料を読む者が推測した「時代を越えた他認」を相手に押し付けるのは、身勝手で暴力的なふるまいだろう。

(杉浦鈴, p.173)

そして杉浦氏は、「生者と同じ重みを持って死者に向き合うために、相手のクィアなふるまいだけを切り取るのではなく、相手の人生を復元しうる限り復元し、想像せねばならない」と結んでいます(p.176)。

もちろん、この論文は歴史研究において過去の人物とどう向き合うかということを記したものですから、二次資料をもとに情報を整理していくWikipediaとは異なるところもあります([[Wikipedia:独自研究は載せない]])。ただ、こうした議論があることを知っておくことで、執筆する時に気を付けるべきポイントに目が行くようになると思いました。

さて、吉屋信子の場合、存命人物ではありませんが、20代から死ぬまで共に過ごした同性のパートナーがいたことで知られています。私が加筆する前(oldid=97703444)の記事に、出典付きで「同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした」という記述があったのですが、これをどうするか悩みました。

同性のパートナーが長くいたからといって、同性愛者であるとは限りません。個人的には、「同性のパートナーとともに長く暮らした」という事実だけを書けば十分、という考えを持っていて、この考えは今でもあまり変わっていません。ただ、出典付きで「~~と言われている」という記述ならば、自認と他認の区別がなされており、そうではない可能性も留意されているとも言えます。一旦、今は保留ということで、この記述はそのままにしておくという判断を取りました(なお、元文献を見ておらず、まだ記事には書いていないのですが、自覚的な「同性愛者」としての吉屋信子が手紙で明かされているとする研究もあるようです)。もっとも、この判断はもちろん変わり得るもので、またすぐに違う記述に変えるかもしれません。

もう一つ悩んだのは、カテゴリの問題です。記事の内容ならば、注釈をつける・表現を工夫するなど色々な方法があり、ガイドラインが定まったとしても、結局は場合に応じてある程度柔軟に対応する、というのが最後の落としどころになるでしょう。しかしカテゴリの場合は、そのカテゴリに入れるか入れないかという二択になってしまうのが難しいところです(記事の内容を見てくれればいいのですが)。吉屋信子の場合は、もともと「レズビアンの人物」といったカテゴリに入っていて、これも今は保留でそのままにしてあります。

これについては、カテゴリの説明の欄に以上の事情(つまり必ずしも自認の表明がともなっていない例があり留意して見てほしいこと)を断っておく、というアプローチもあるかもしれません。すでに[[Category:LGBTの著作家]]には少し注意書きが書いてあります。英語版には人物のカテゴライズ方法を記した[[Wikipedia:Categorizing_articles_about_people]]というページもあるようですが、これも日本語版はないようです。

先に紹介した[[プロジェクト‐ノート:LGBT#{{Portal LGBT}}の人物記事への貼り付けについて]]でも言われていますが、今後の執筆を考えると、特に人物記事とそのカテゴリについてはある程度まとまったガイドラインが必要になりそうです。

今後に向けて

以上、執筆中に考えたことをつらつらと書き連ねてきました。もともとセクマイ関連の記事を書こうと思ったきっかけは、これまで不可視化されやすい立場に置かれてきた人々の歴史を、改めて書き起こして記録することに、大きな意義があると考えたからです。Wikipediaの女性記事を増やす取り組みに[[ウィキギャップ]]がありますが、これと同じ方向性で、まずは少しずつ記事を増やしていこうと思いました。

実際にセクマイに関わる記事を書いた感想は、とてもよい体験だったという一言に尽きます。もちろん辛い歴史を内包しているわけですが、その状況で立ち上がった人がいた歴史を学ぶことで、大いに鼓舞されました(そしてこのDiff記事を書こうと思い立つことになりました)。また、Wikipediaのルールに則って記事を書くと、自然と様々な文献を集めていくことになるので、こうした運動を取り上げた文献を能動的に探して読むことに繋がるのも良い点です。

私自身、セクショナル・マイノリティの当事者の一人でもあり、こうした歴史を知ることで救われるところがあると改めて実感しました。

残念ながら、Wikipediaの記事や議論の中には、差別的な記述が残っているところもあって、執筆をすべての当事者に勧めることはできません。ただ、英語版などに基づいて、色々な文献を調べて整理しながら、新しい記事を作るという作業であれば、多くの方に勧めやすいと思っています。執筆仲間を増やしていきたいですね。興味のある方はぜひご連絡ください。

今後の自分の執筆については、[[プロジェクト:LGBT]]に参加し、[[Portal:LGBT]]の整備をやっていこうと考えているところです。もちろん、日本語版WikipediaにはこれまでにLGBTQIA+に関わる記事を精力的に書かれてきた方々がたくさんおられますし、まずは多くの方と一緒に、先ほど考察したガイドライン作りをやっていければいいですね。一緒にやりたい人を募集しています。

長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。