能登半島地震によるアーカイブの必要性を考える

2024年1月1日、日本の本州にある能登半島の沖を震源とするマグニチュード7.6の地震「能登半島地震」が発生した。地震は能登半島沖に限らず、広範囲の地面を揺らし、液状化現象も確認されるなど、影響は広大であった。能登地域では、これまでも大きな地震が発生しており、特に2021年以降は日本の震度指数で震度5以上の地震が年1〜2回の頻度で発生していた。同時に、能登地域では、これまでの地震からの復興を目指して、各地区が鋭意取り組みを開始していたところであったが、その最中にさらに大きな地震が発生した。

石川県輪島市の輪島朝市のあった場所での航空自衛隊によるドローンによる捜索活動。/ File:Air Self-Defense Force drone search operation at Wajima Asaichi.jpg on commons.wikimedia.org / Picture by
Japan Air Self-Defense Force / CC-BY-4.0

自身は、2011年3月11日に発生した東日本大震災を経験したが、学生新聞の後輩が仙台で被災し(怪我など身体への被害はなかった)、その後数日間全く連絡が取れなくなってしまう状況が発生し、後から聞いた話では公衆電話にかなり並んだという話を聞いた記憶があった。同日以降、日本国内では最も被害が大きかった東北地方の報道が連日連夜行われ、同時に津波の被害も日を追うごとにつれて判明していき、ことの重大さと悲惨さにショックを隠せない日々であったことを今でも鮮明に覚えている。ただ、東北地方を訪問した経験がなかった自分は、震災前の東北がどのような風景であり、そこに何があったのか、それは地図や報道、過去の写真からしか判別ができない。過去の写真も座標などの地理情報が整理されていれば容易に判別することができるが、そうでもなければ、土地勘がない私にとっては難易度が高かった。日本国内でも、Googleストリートビューの運用が開始されていたが、東北地方にはまだ進出していなかったことから、それも見ることができなかった。今となっては、地震の直後の運転車窓映像が、せんだいメディアテーク内の「3がつ11にちをわすれないためにセンター」にDVDとして、また一部がYouTubeの動画として保管されている。

https://recorder311.smt.jp/movie/8256

この経験で思ったことは「今を記録しないと、それは将来も記録されないかもしれない」ということだ。それは、震災前・後に限らずの「今」である。本当はもっと早く東北にいきたいという思いはあったが、学生だったこともあり、それをかなえることはできず、実際に東北を初めて訪れることができたのは、震災からちょうど1年後の2012年3月10日から11日にかけてであった。

前置きが長くなったが、話を能登半島地震に戻す。年初のお祝いモードだった日本国内のムードは一転して、震災報道一色になり、東日本大震災と同じ感覚を持った。翌日1月2日には、現地支援のために離陸しようとしていた海上保安庁機と旅客機が衝突する事故が羽田空港で発生してしまった。

そんな中、自分自身にできることを考え始めていた。なぜ、全国各地でご縁をいただきながらウィキメディアプロジェクトに関わらせてもらっているのかを考えながらも、その中身については具現化できずにいたところだった。しかし、東日本大震災の時と同じ思い・後悔はしたくない、と強く思うようになっていた。

羽田空港で衝突した日本航空機。/ File:Japan Airlines 516 JA13XJ wreckage.jpg on commons.wikimedia.org / Picture by
Makochan12.9 / CC-BY-SA-4.0

その思いは、地震から1週間後の1月7日から、メッセージで伝えることとなった。メッセージを送ったタイミングは、ウィキメディア財団の担当者から能登半島地震の状況を伺うメールをいただいたりするなどもしており、いよいよ本格的に動かなければと決心したところであった。その宛先は、能登半島がある石川県でプロジェクトを展開してる映像ワークショップの皆さんだ。映像ワークショップは「奥能登国際芸術祭」など能登でも多くのプロジェクトに関係されていたこともあり、現地とのつながりもあった。そのほか、これまでのウィキメディアと映像ワークショップのコラボレーションや「かがが」の構築のお手伝いもさせていただいていた。その詳細については、別の記事で確認されたい。

https://diff.wikimedia.org/2023/08/11/launching-of-a-wikipedia-town-in-the-far-remote-settlement-of-ozuchi

映像ワークショップがメインフィールドとしている石川県加賀市は、日本海を航海して商品を運び、生計を立てていた「北前船」で発展した地区があり、それは能登にある地区も同じだ。もっとも、2023年11月に石川県金沢市で開催された「デジタルアーカイブ学会 第8回研究大会」でもご一緒させていただき、そこのご縁もある。

石川県加賀市山中温泉大土町で開催されたウィキペディアタウンの様子。
石川県加賀市山中温泉大土町で開催されたウィキペディアタウンの様子。 / File:Wikipedia Town in Ozuchi 20221103(12).jpg on commons.wikimedia.org / Picture by Eizo Workshop G.K. / CC-BY-SA-4.0

自身が先方に送ったメッセージには、こう書いていた。一部を抜粋・要約した。

もちろん皆さんが落ち着いたら、なのですが、記録として能登にきちんと撮りにいくタイミングを狙っています。そのタイミングは石川にいらっしゃるみなさんにしか分からない気がしています。

その内容は、被害状況も収めたいし、たぶんすべてが記録対象になるのではないかというのもあり、正直私もまだ具体化できてはないです。

月末には福井にお伺いするのですが、海側在住の担当者の方なので、ご自身は被害に遭われていないのですが周りの方は家が傾く被害が出ているという話もあって、正直どこに力点を置けば良いかわからない、というのが本音です。

東日本大震災の時には学生だったこともあり、現地に入っていた後輩に仙台駅の様子とかを撮影してもらって、それをアーカイブした記憶があります。今回どうすればいいのか、本当に悩みます。タイミングも含めて。

自身が送信したメッセージ。

アーカイブの必要性は、震災前のことも然りだが、震災時、その直後、そして復興が進んでからも同じことだ。先ほど被災に関する動画の節で紹介した、せんだいメディアテークでは、震災前から震災後に至る一連の流れを記録して、今も整理し続けている。この話を映像ワークショップの皆さんから聞いた時に、改めて今の瞬間の記録の重要性を確信したところであった。別件で拝読した書籍に「アーカイブ精神」という単語が脳裏に浮かんだところであった。

コレクションを構築するために収集を続ける精神、日記に日々の出来事を記録し続ける精神、世界各地の風景を撮影し続ける精神など、いずれも「データの価値が激減」しないように日常の行動を律するという「アーカイブ精神」を内面化した行動とも言えるのではないか。世界各地のストリートを撮影し続けるGoogle社も、アーカイブ精神を有する組織と言えるかもしれない。

北本 朝展「第7章 災害の非可逆性とアーカイブの精神―デジタル台風・東日本大震災デジタルアーカイブ・メモリーグラフの教訓」(鈴木 親彦 編、今村 文彦 監修「災害記録を未来に活かす」(2019) p.178)

その後の打ち合わせで、おおよその行先と日程を検討し、金沢から七尾市・能登町・珠洲市・輪島市を3人で訪問することを決めた。2月15日から17日の3日間を訪問期間として、それぞれに繋がりがあることから、訪問先との調整をしながら最終行程を検討することとなった。

また、「取材趣意書」も今回の訪問に向けて準備した。これは、自身が学生時代に訪問先に持参していたものを思い返して提案したもので、自分たちの思いを詰め込んだペーパーとなった。

私たちは、2024年(令和6年)1月1日に起きた「令和6年能登半島地震」をアーカイブ(出来事の記録と保存)する活動を草の根的に行なっています。マスメディアによる報道や国の調査委員による記録に対して、市民一人ひとりの目線は「その場所」「その時」「その文化」に根差したエピソードを捉えます。私たちはそれらを未来に向けて発信し、受け取った誰かが世の中をより良い方向へ変えていくと信じています。

今日は街の被災状況を映像と写真で記録しに参りました。これをアーカイブの起点として、街の復興や変遷を継続的に記録していきたいと考えています。

映像ワークショップ・あらいしょうへい「「令和6年の元日をわすれないために」能登半島地震アーカイブ」(取材趣意書)

実際のレポートは、改めて続編として掲載させていただくが、七尾市街は多少の復旧が進んでいるところもあったが、そこから半島の先端にかけて広大な面積をもつ珠洲市はまだ復旧すらままならないところも多くあり、自然の力がいかに大きく、人間が無力なのかを思い知った訪問だった。輪島市門前町(半島西側にあたる)の海底隆起した港も訪問することができた。すでに、さかおり氏が国土地理院の航空写真を用いた比較画像をウィキペディアにアップされていたが、現地の写真も撮影できて良かったと思っている。

同時に、今回の訪問では、各地のキーパーソンとも面会することができた。それは、コミュニティ構築、文化財、芸術家など、多くの方とお話した。今後の再会をそれぞれ約束して能登を離れることとなった。