日本語版ウィキペディアで2009年に実施された「良質な記事の選考」において百科事典はどのように言及されているのか

稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、2009年の日本語版ウィキペディアで実施された「良質な記事の選考」上の言説のうち、百科事典に言及したものをピックアップし分析します。ウィキペディアンたちの言説に表象される「ウィキペディアと百科事典の関係」の多様性について考えるきっかけとなれば幸いです。

問題意識

Wikipedia:ウィキペディアへようこそ」というページにおいて、ウィキペディアは「信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです」と紹介されています(2024年1月20日 (土) 11:09 (UTC) 版より引用)‎。

ウィキペディアの講習会等で講師を務める際、私も上記のような説明をするのですが、実はその度に少し違和感を覚えています。というのも「これだけ独自の発展を遂げたウィキペディアは、もはや『百科事典をベースとした別のメディア』ではないのか?」「そもそもウィキペディアンは記事を編集する際、どんな百科事典を想定しているんだ?」と感じてしまうからです。

そこで、ウィキペディアンたちの言説における「百科事典」像について調べてみることにしました。具体的には、日本語版ウィキペディアの「良質な記事の選考」において、百科事典に言及している言説をピックアップし、年ごとにブログにまとめることとしました。

良質な記事とは

2009年、日本語版ウィキペディアで「良質な記事」という制度が立ち上げられました。その名のとおり、質の高いウィキペディア記事を顕彰する制度です。良質な記事は、ウィキペディアンたちの議論によって選出されるのですが、その議論は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考」というページ(およびそのサブページ)で行われます。これらの議論は、他のウィキペディア記事同様、履歴を検証することが可能です。

調査対象

本稿では、「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/選考結果リスト/2009」2023年8月30日 (水) 04:41 (UTC) 版に掲載された、69件の「良質な記事の選考」を調査対象とします。‎具体的には、それぞれの選考ページにアクセスして「百科事典」とページ内検索を行い、選考内において「百科事典」に言及した言説をピックアップします。

調査結果

2009年に行われた選考69件のうち、百科事典に言及したものは3件ありました。以下、当該箇所を引用しつつご紹介します。なお、引用冒頭にある(コメント)(賛成)は、選考対象となっている記事が「良質な記事」に相応しいか否かについての態度です。(コメント)は具体的な賛否を示さないものの、とりあえずコメントだけは行うというスタンスです。

1件目は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/惑星の居住可能性 20091101」です。ここでは「読み物としては面白いが、これは百科事典的なのか」という趣旨の指摘がなされています。

(コメント)読み物としては非常に興味を惹かれたのですが、百科事典なのか、という点に首をかしげてしまいました。例えば「惑星の居住可能性」という用語はある指標であると冒頭に定義していますが、誰が提唱し、いつ定義された指標なのかが明確で無く、以降の記述と矛盾しています。この定義で正しいのでしょうか?–R.Lucy2009年11月1日 (日) 15:13 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/惑星の居住可能性 20091101]] 2009年11月18日 (水) 15:00 (UTC)‎ 版。
Public Domain

2件目は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/歯の発生 20091128」です。ここでは「百科事典にしては説明が難しいのでは」という指摘がなされています。

(賛成)図も豊富であり、説明も詳細でよいと思います。ただ、百科事典にしては説明がちょっと難しいように思います。例えば「概要」の冒頭部を「歯は、歯胚という細胞の集合体が成長してできたものである。その歯胚は…から分かれてできたものである」としてみるとか(この説明で合っているかどうかは分かりませんが)。–Freetrashbox 2009年12月5日 (土) 05:12 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/歯の発生 20091128]] 2009年12月12日 (土) 14:19 (UTC)‎ 版。
11歳の子どもの歯。 (user:dozenist, CC BY-SA 3.0)

3件目は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/アフリカ睡眠病 20091213」です。ここでは「(通常の)百科事典ではあまり記載されない内容も、ウィキペディア記事に盛り込んでみてはどうか」という提言がなされています。

(コメント)診断の記載と、治療の出典がすこし不足していると思います。個人的には、診断や、治療は百科事典では疫学や歴史に比べればどちらかというと必要性は低いとは思いますが、もう少し記載があればなおいいのではないかと考えています。KMT 2009年12月13日 (日) 06:25 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/アフリカ睡眠病 20091213]] 2009年12月27日 (日) 02:20 (UTC)‎ 版。
アフリカ睡眠病を引き起こすトリパノソーマ。(Public Domain)

分析

いずれの言説においても、何かしらの百科事典像が想定されていることは共通しています(百科事典について言及している言説をピックアップした以上当然かもしれませんが)。ただし、そこで想定される百科事典像は「読み物とは異なる」「説明は難しすぎない」「疫学や(その)歴史に比べて、診断や治療に関する情報はあまり百科事典に掲載されない」など多様です。また、その百科事典像にウィキペディア記事を厳密に適合させるかについても、ウィキペディアンごとに意見が異なっています。

ウィキペディアンたちが想定する百科事典観が多様であることの原因は、そもそも百科事典そのものが多様だからと思われます。以下、子ども向け用百科事典『総合百科事典ポプラディア』の編集担当を務めた飯田建さんの回想より引用します。様々な百科事典像の中で、自分たちの編集する百科事典をどのように位置付けるかについて解説されています。

百科事典といっても,さまざまなタイプのものがある。どのような百科事典をつくるのか,決めていかなければならない。まず,規模と想定価格を決めた。

(略)

これと並行して悩んだのが,テーマ別,教科別にするか,五十音順にするかである。

(略)

一般の百科事典の多くは,記名原稿である。各項目の解説は,執筆者のいわば小論文のようなものであり,学説等は,執筆者の判断,責任に任される。ゆえに執筆者の主義主張があり,項目間に整合性がなくても問題にはならない。数十巻にも及ぶものをつくり上げるうえではやむを得ないことであるとともに,一般の用をなすものとしては当然のことである。

しかし本書は,子どもたちが読むものである。できるかぎり客観的で,できるかぎり定説を取り上げ,項目間で表記のゆれや,立場の違う解説となることは避けたい。そこで本書では,基本的に無記名とし,編集部の責任でこれらの調整を図ることにした。

飯田建「子どもたちの知のデータベース『総合百科事典ポプラディア』をつくる」『情報管理』第54巻第5号、2011年、245-246ページ。

また、いわゆる「百科事典」にウィキペディア記事を厳密に適合させるか否かについての態度が分かれているのは、そもそもウィキペディアというメディアがどのようなものなのか厳密に定義されていないからではないかと予想します。もちろん、ウィキペディアには「Wikipedia:方針とガイドライン」や「Wikipedia:五本の柱」といった運用に関するページが存在しますが、一方で杓子定規な運用を避けるため「Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい」というページも存在するのです。

さらに、ウィキペディアには「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」というページも存在します。「Wikipedia:ウィキペディアについて」という解説ページが7,860バイトであるのに対し(2024年2月3日 (土) 18:59 (UTC) 版)‎、「何ではないか」のページは65,402バイトもあります(2024年4月19日 (金) 18:42 (UTC) 版)。‎これは、ウィキペディアについての厳密な定義を作成するよりも、定義は緩やかにした上で運用時に生じた問題を都度リストアップする方を優先する、日本語版ウィキペディア・コミュニティの姿勢の表れと言えるでしょう。

まとめ

2009年の良質な記事の選考における議論のうち、百科事典に言及したものをピックアップし、「ウィキペディアは百科事典であるという合意は形成されつつも、利用者たちが描く百科事典像は様々であり、さらにその百科事典像にウィキペディア記事を厳密に適合させるかについての意見も様々」という分析を行いました。今後は、別年度の選考についても分析を行えればと思います。また、百科事典の研究や、インターネット上の言説の分析手法についても知見を深めていければと思います。