日本語版ウィキペディアで2010年上期に実施された「良質な記事の選考」において百科事典はどのように言及されているのか

稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、2010年上期の日本語版ウィキペディアで実施された「良質な記事の選考」上の言説のうち、百科事典に言及したものをピックアップし分析します。ウィキペディアンたちの言説に表象される「ウィキペディアと百科事典の関係」の多様性について考えるきっかけとなれば幸いです。

なお、2009年分の分析は「日本語版ウィキペディアで2009年に実施された「良質な記事の選考」において百科事典はどのように言及されているのか」というブログ記事で行っているので、興味があればこちらも是非。なお、前半部分は本稿とほぼ同じです。

問題意識

Wikipedia:ウィキペディアへようこそ」というページにおいて、ウィキペディアは「信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです」と紹介されています(2024年1月20日 (土) 11:09 (UTC) 版より引用)‎。

ウィキペディアの講習会等で講師を務める際、私も上記のような説明をするのですが、実はその度に少し違和感を覚えています。というのも「これだけ独自の発展を遂げたウィキペディアは、もはや『百科事典をベースとした別のメディア』ではないのか?」「そもそもウィキペディアンは記事を編集する際、どんな百科事典を想定しているんだ?」と感じてしまうからです。

そこで、ウィキペディアンたちの言説における「百科事典」像について調べてみることにしました。具体的には、日本語版ウィキペディアの「良質な記事の選考」において、百科事典に言及している言説をピックアップし、年ごとにブログにまとめることとしました。

良質な記事とは

2009年、日本語版ウィキペディアで「良質な記事」という制度が立ち上げられました。その名のとおり、質の高いウィキペディア記事を顕彰する制度です。良質な記事は、ウィキペディアンたちの議論によって選出されるのですが、その議論は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考」というページ(およびそのサブページ)で行われます。これらの議論は、他のウィキペディア記事同様、履歴を検証することが可能です。

調査対象

本稿では、「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/選考結果リスト/2010上」2010年7月15日 (木) 14:09 (UTC) 版に掲載された、62件の「良質な記事の選考」を調査対象とします。‎具体的には、それぞれの選考ページにアクセスして「百科事典」とページ内検索を行い、選考内において「百科事典」に言及した言説をピックアップします。

調査結果

2010年上期に行われた選考62件のうち、百科事典に言及したものは3件ありました。当該箇所を引用しつつご紹介します。

百科事典としての情報は揃っている

1件目は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/勲章 (日本) 20091229」です。ここでは、選考対象の記事が「百科事典の記事として必要な情報はおおむねそろっている」と称賛されています。

 賛成 百科事典の記事として必要な情報はおおむねそろっており、個々の文章の内容も出典が明らかにされていることから、「良質な記事」に値すると思います。ただ、画像が大量削除されてしまったのは残念です。–新芽 2010年1月8日 (金) 01:32 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/勲章 (日本) 20091229]] 2010年1月10日 (日) 10:31 (UTC) 版。なお、選考が開始したのは2009年12月29日ですが、終了したのが2010年1月10日なので、‎2010年上期の選考として取り扱われています。

また、2件目の「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/金属 20100511」でも、同様の指摘がなされています。

賛成 簡潔で、網羅的な内容の記事だと思います。レベル的にも高すぎず、百科事典の記事として高い完成度を誇っていると感じました。–Occhanikov 2010年5月11日 (火) 17:33 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/金属 20100511]] 2010年5月14日 (金) 13:07 (UTC) 版。‎
ガリウム。(en:user:foobar, CC BY-SA 3.0)

百科事典に掲載されるべき項目

上記の「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/金属 20100511」では、百科事典に言及した言説がもう一つありました。記事のレベルの高さを称賛しつつ、「百科事典として当然収めるべき重要な項目」という概念が提示されています。

(賛成)百科事典として当然収めるべき重要な項目で、これほど高いレベルでまとまっているのは素晴らしいと思います。賛成いたします。–R.Lucy 2010年5月11日 (火) 13:48 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/金属 20100511]] 2010年5月14日 (金) 13:07 (UTC) 版。‎
リチウム。(Tomihahndorf, CC0)

百科事典的ではない

3件目は「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スター・システム 20100210」です。ここでは、「百科事典的ではない」という指摘がなされています。

反対 必要な出典が欠けており、全体の構成もまとまりがないと思います。また、独自研究と、ここ数年の事象に関する記述が多くを占めているため、百科事典的ではないと思います。各分野に関する雑多な情報は、推敲して各分野の記事へ移動し、「スター・システム」そのものに関する記述を充実させるべきであると思います。–唐棣色 2010年2月21日 (日) 01:18 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スター・システム 20100210]] 2010年2月28日 (日) 02:49 (UTC) 版。‎

なお、本稿を執筆している2024年4月時点で [[スター・システム]] というウィキペディア記事は「曖昧さ回避」ページとなっており(2023年1月27日 (金) 08:50 (UTC)‎ 版)、[[スター・システム (俳優)]], [[スター・システム (スポーツ)]], [[スター・システム (小説・アニメ・漫画)]] という3つの記事のリンクが紹介されています。良質な記事の選考で議論された版は、2010年1月30日 (土) 18:36 (UTC) ‎版ですが、この版では上記の内容が1つの記事に集約されています。

分析

2009年分の分析と同様、今回も全ての言説において何かしらの「百科事典」像が想定されています。今回特に気になったのは、「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スター・システム 20100210」における「独自研究と、ここ数年の事象に関する記述が多くを占めているため、百科事典的ではないと思います」という言説における百科事典像です。

結論を言うと、私はこれを読んで「『百科事典的ではない』ではなく『ウィキペディア的ではない』とするべきではないか」「ウィキペディア独自の理念が百科事典一般にも適用される事例が生じるくらい、ウィキペディアは圧倒的な地位を占めたのかもしれない」と感じました。

ウィキペディアには「Wikipedia:独自研究は載せない」という方針があります。信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを「独自研究」と定義した上でそれを禁止する方針なのですが、この方針はウィキペディアにおいても特に重視される理念で、「三大方針」の一つを構成しています。

一方、ウィキペディア以外の百科事典では、研究者が最前線の知見を記すことがあります。以下、2009年の分析記事でも取り上げた、子ども向け用百科事典『総合百科事典ポプラディア』の編集担当を務めた飯田建さんの回想より引用します。

一般の百科事典の多くは,記名原稿である。各項目の解説は,執筆者のいわば小論文のようなものであり,学説等は,執筆者の判断,責任に任される。ゆえに執筆者の主義主張があり,項目間に整合性がなくても問題にはならない。数十巻にも及ぶものをつくり上げるうえではやむを得ないことであるとともに,一般の用をなすものとしては当然のことである。

しかし本書は,子どもたちが読むものである。できるかぎり客観的で,できるかぎり定説を取り上げ,項目間で表記のゆれや,立場の違う解説となることは避けたい。そこで本書では,基本的に無記名とし,編集部の責任でこれらの調整を図ることにした。

飯田建「子どもたちの知のデータベース『総合百科事典ポプラディア』をつくる」『情報管理』第54巻第5号、2011年、246ページ。

これらを踏まえると、「独自研究と、ここ数年の事象に関する記述が多くを占めているため、百科事典的ではないと思います」という言説は、ウィキペディア独自の理念が百科事典一般に適用されるほど、ウィキペディアというメディアの存在感が大きくなった結果生まれたものなのかなと感じます。もちろん、今回はウィキペディアン、すなわちウィキペディアの方針等にある程度通じ実際に編集を行うユーザーの言説を対象としたものなので、ある程度のバイアスがあることは考慮すべきですが。

また、「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/金属 20100511」における「百科事典として当然収めるべき重要な項目」という言葉も印象に残りました。百科事典観とは「どのような記述をするのか」だけでなく、「どんな項目を収録するのか」も含まれるのだなと改めて感じました。ちなみに、ウィキペディアには「Wikipedia:すべての言語版にあるべき項目の一覧」というページが存在するので、興味のある方は是非ご覧ください。

まとめ

2010年上期の良質な記事の選考における議論のうち、百科事典に言及したものをピックアップし分析を行いました。今回のハイライトは、ウィキペディア独自の理念を百科事典一般に当てはめた言説でしょうか。今後、ウィキペディアと「百科事典一般」についての比較をよりディープに行えるよう、百科事典の知見も深めていければと思います。