稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、山本康一さんの論考「辞書編集と出版」における、ウィクショナリーに関連する記述を紹介します。
書誌情報
- 山本康一「辞書編集と出版」『英語コーパスシリーズ 第3巻 コーパスと辞書』ひつじ書房、2018年、217-246ページ。ISBN 978-4-89476-713-3。
概要
第3章「電子化の未来と辞書出版」の第2節「電子版辞書と電子的辞書編集法」において、ウィキメディア財団の辞書プロジェクト「ウィクショナリー」が言及されていました。以下、かなり長くなりますが引用します。
Granger (2012) は「(略)近年の多くの辞書プロジェクトは電子媒体が電子媒体がもたらしたイノベーションが、辞書の設計と利用のあらゆる側面を根本的に変えうることを証明している」とした上で、以下6つのイノベーションを挙げている。
- コーパスとの結合:辞書編集のバックグラウンドで使われるのみならず、電子版辞書に統合されて、ユーザーが直接アクセスして、自身のための情報を取り出すものとなっている。
- 多量の良質なデータ:より多量の良質なデータとの統合。すなわち、コロケーション、用例の飛躍的な増量、マルチメディアコンテンツ(画像・図表・動画・音声等)、拡張情報(語法・文化情報・誤用情報等)の一体化。
- アクセス効率:すでにある多彩な検索オプション(曖昧検索、インクリメンタルサーチ、全文検索等)に加え、ユーザーの求める適切な見出し語やフレーズ、特定の情報にたどり着く多様な検索方法の実現。アクセシビリティ全般の改善。
- カスタマイズ:ユーザー自身のニーズに正対した情報の提供。ユーザー一人ひとりに異なるニーズをつかみ、ユーザーが辞書を使う際に求める情報を提供する。このユーザーのニーズに辞書を適合させるプロセスがカスタマイズであり、ユーザー自身が辞書をカスタマイズできるものと、辞書側がユーザーの利用履歴などを参照して、自動的にユーザーに合わせた情報を提供するものとがある。(この場合、電子版辞書とは静的に存在するものではなく、もはや動的なツールであり、アクセスする時のみ存在するだけだ、というべきものかもしれない。)
- ハイブリッド:辞事典、専門用語集、語彙データベース、単語帳、作文の手引き、翻訳ツールなどの異種の言語リソースとの統合。辞書兼文法書、モノリンガル辞書兼バイリンガル辞書など。
- ユーザーによる入力:wikiテクノロジーを使った、ユーザー自身が入力する集合的辞書編集。人手をかけられるという点に加え、言葉の変化と新しい語彙を常に押さえていける点が強みであるが、反面、正確性が保証されず、これらユーザーの手になる辞書は科学的価値がない、という否定的な見方もある。
これらはすでに取り組まれており、実現も進んでいるものでもある。コーパスからの追加用例、シソーラスの付加、マルチメディアコンテンツ等、印刷版辞書にはない情報の付加は、すでにいくつもの辞書で行われている。ユーザー自身の参加やコミュニティーによる辞書編集という点では、Wiktionaryや「英辞郎」の活動がある。
また、完全に紙という容れ物から離れ、大量の付加データとの融合、カスタマイズ、ハイブリッドの方向に進むということは、編集内容自体の変容も伴うことになる。電子化によって、冊子体と有限の紙面がどうしても離れられなかった分量の制約から解放され、「不可解な略記号を排した、より自然な辞書のレイアウト」(Granger 2012:3) が実現されること自体は素晴らしいことであるが、分量の制約がないということは、反面、冗長で弛緩した記述に陥るというマイナスの可能性も伴う。略記号を使うことで、情報の圧縮を行うことは、紙面スペースの節約のみならず、読み手の理解のエコノミーのために資する面もあるはずである。この点は、ユーザーごとのカスタマイズという手法を応用するなりして、ある配慮と対策を講じないと、真にユーザーフレンドリーというニーズにこたえることにはならないだろう (山本 2013:59)。
前掲書、241-242ページ。
感想
大変勉強になる議論でした。ただ、重箱の隅をつつくような指摘で恐縮ですが、ウィクショナリーを例としてあげるなら「6. ユーザーによる入力」の事例としてだけではなく、「5. ハイブリッド」の事例としても取り上げてほしかったなと思いました。というのも、ウィクショナリーは様々な辞書の役割を統合した、まさしくハイブリッドな辞書だからです。以下、日本語版ウィクショナリーのメインページにおける、ウィクショナリーの説明を引用します。
ウィクショナリーでは、あらゆる言語(日常的な話者コミュニティを持たない人工言語は除く)の語句を対象としています。語義、発音、語源、活用、用法、訳語、関連語などを収録し、最終的には国語辞典、漢和辞典、英和辞典、独和辞典、類語辞典などを網羅した多言語の多機能辞典を目指しています。
日本語版ウィクショナリー [[Wiktionary:メインページ]] 2023年6月14日 (水) 21:15 (UTC) 版。
具体例を示します。日本語版ウィクショナリーの項目「sada」には、スロヴェニア語、セルビア・クロアチア語、中部ドゥスン語における「sada」の意味および活用形が記載されています (2023年10月7日 (土) 13:13 (UTC) 版)。また、英語版ウィクショナリーにおける同項目に移動すれば、日本語で書かれていた語釈を英語で読むことができます。つまりウィクショナリーは、任意の文字列が各言語において持つ意味を様々な言語で通覧できるメディアなのです。これはまさしく「ハイブリッド性」そのものでしょう。ただし、ウィクショナリーは言語版ごとに独立した運用となっているため、同じ項目でも言語ごとに充実度が異なることが多いことにご留意ください。例えば英語版ウィクショナリー「sada」には10以上の言語における「sada」の意味が英語で記載されているほか、言語によっては語源までも記されています (13:51, 4 June 2024 (UTC) 版) 。
ちなみに「もしかしたら、山本論考が参照している Granger (2012) では、ウィクショナリーが言及されているかもしれないな」と思い、ウィキペディア図書館を活用して電子版を確認しましたが、やはり記述はありませんでした。参考までに、当該部分を引用します。
Hybridization : One of the most striking results of the electronic revolution in lexicography is that barriers between the different types of language resources—dictionaries, encyclopedias, term banks, lexical databases, vocabulary learning tools, writing aids, translation tools—are breaking down. Hartmann (2005a) refers to this trend as ‘hybridization’, which he defines as the “combination of one or more types of reference work in a single product”. Among the examples he provides are compromise genres like ‘dictionary-cum-grammar’, ‘dictionary-cum-thesaurus’, ‘dictionary-cum-usage guide’, and ‘monolingual-cum-bilingual dictionary’. According to Varantola (2002: 35), the future electronic dictionary will be “an integrated tool or a number of tools in a professional user’s toolbox where it coexists with other language technology products”. One particularly promising development in this connection is the convergence of electronic lexicography and computer-assisted language learning (CALL) in hybrid tools that Abel (2010) refers to as either ‘dictionary-cum-CALL’ or ‘CALL-cum-dictionary’ according to which of the two functionalities plays the central role.
なお、書誌情報は以下のとおりです。
- Granger, Sylviane, ‘Introduction: Electronic lexicography—from challenge to opportunity’, in Sylviane Granger, and Magali Paquot (eds), Electronic Lexicography (Oxford, 2012; online edn, Oxford Academic, 24 Jan. 2013), https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780199654864.003.0001, accessed 30 June 2024.
まとめ
山本康一さんの論考「辞書編集と出版」における、ウィクショナリーに関連する記述を紹介した上で、ウィクショナリーの特徴について簡単にまとめました。辞書やウィクショナリーに関する言論が盛んになるきっかけとなれば幸いです。
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