昨年ウクライナのウィキ・ラブ・モニュメント主催チームは、ウクライナ・ドイツ人会議 (CGU) の協力の元に、特別カテゴリー「ドイツの遺産」を開始しました。今年のコンテストは丁度始まったところで、10月中に2回目の特別カテゴリーが実施されますが、2023年の結果と入賞作品を見てみましょう。
「ウクライナ系ドイツ人は中世以来、現在のウクライナの領土に住んできており、1763年以降明らかに増え続け、―ドイツ人には税金を納めなくてよいなどの特権があり、特にウクライナ南部と東部に定住し、彼ら独自の村や町を作ってきました。第二次世界大戦の結果、彼らは「国賊」としてシベリアへ強制収容されるか、それを避けるためドイツへ帰るかという状況になり、ドイツ人はしばらくここからいなくなりました。彼らが残した教会、工場、製粉所などの建物のいくつかは破壊され、再建され、再利用されましたが、いくつかは生き残り、私たちはウィキペディアを書くために、それらの写真やビデオを集めています。
「この事業は現在とても重要で、これらの居住区の多くは現在ウクライナの占領地域にあったり、ロシアのウクライナへの侵攻により破壊されたりしているのです。ウクライナ・ドイツ人会議の支援により、私たちはこの特別カテゴリーを2023年に始め、2024年の現在も継続中です。」-ウィキ・ラブ・モニュメント・ウクライナの主催チームメンバーであるアトリーがコメントしました。「私たちは文化遺産モニュメントの一覧を作り維持しており、こちらから見ることができます。ここには約300件の対象が既に登録されていて、それを拡張する作業を続けています。コンテストの他の特別カテゴリーと同様に、公的に保護された場所と、そうでないものが含まれています。」
ウクライナ・ドイツ人会議会長Volodymyr Leisleは、次のようにコメントしています。「ウクライナのドイツ文化遺産の記録化と普及は、私たちにとってとても大切です。バフムート、ニューヨーク(東部ウクライナの町)、トクマク、モロチナ川近郊、ベルジャーンシク、マウリポリなど、南東ウクライナの居住区は、ドイツ人入植者と歴史的文化的に深いつながりがあります。私たちの共同作業は、ドイツ遺産のアーカイブ写真をデジタル形式で保存することで、ロシア軍により破壊されたものについては、特に意義があると私は信じています。
私たちは、集めた写真を使うために、ウクライナの歴史的文化的ドイツ民族遺産をウィキペディアに執筆するキャンペーンを計画しています。」
特別カテゴリー「ドイツ遺産」には全体で226か所の遺産が登録されていますが、そのうち150は国家により保護されていません。昨2023年コンテストでは、27名の参加者が137の遺産に約700枚の写真をアップロードし、そのうち104枚は公的保護ではありません。これらの対象物はウクライナの27地域のうち12地域にあります。
ウクライナ・ドイツ人会議は特別カテゴリーの審査員団の編成に協力し、一覧は次の通りです(ABC順)。
● Dr. Alfred Eisfeld は、ロシア帝国、ソヴィエト連邦、CEE(中東欧)諸国におけるドイツ人の歴史と文化の専門家で、多くの学術書を著している。
● Volodymyr Leisle は、ドイツ出身のウクライナの活動家。彼は2009年からウクライナ・ドイツ人会議の会長で、ドイツ政府の支援や、ウクライナにおける少数ドイツ人の権益保護を担当している。
● Dr. Dmytro Myeshkov は、ハンブルク大学北東研究所の歴史学者。
● Christel Steigenberger は、ウィキメディア・コモンズの管理者で、ドイツ語版ウィキペディアの編集者。
● Edwin Warkentin は、ノルトライン=ウェストファーレン州デトモルトにある、ロシア・ドイツ文化史博物館文化部長。
以下は審査員が選んだ21枚の写真です。それらはウクライナの6地方、ザポリージャ州、ハリコフ州、ドニプロ州、ケルソン州、オデッサ州、そしてキエフで撮影されました。コンテストの入賞者は次の5つのカテゴリーから選ばれました。「建物遺産」「産業遺産」「宗教遺産」「その他の遺産」「戦争で破壊された遺産」。
建物遺産
第1位
「建物遺産」の第1位は、ザポリージャ州ドリンスク村のペーター・D・シュルツの家です。この家は当時公式リストに登録されていませんでした。撮影者はOleksandr Malyon。
ルディ・フリーゼンの著作『メノー教徒の建築。過去から未来へ』によると、この家は1912年から1914年にペーター・D・シュルツにより建てられましたが、彼はディートリッヒ・シュルツの息子で、「D.B. シュルツ&エルベン」工場の創業者であり、当時工場を経営していました。
本の記述によると、建物は「温水で暖房がとられ、水道とトイレがあった。工場の蒸気エンジンは照明用電気を作った。1階には台所、洗濯室、使用人部屋があった。広いベランダが外に通じていた。1階には道路に面した広いバルコニーがあった。家は地元産の煉瓦で作られ、窓の上は尖ったアーチと平らなアーチで贅沢に飾られている。1階の屋根裏は中央が半円形で、ホールツィツャ島の町役場のようである。家の背後には煉瓦造りの小屋があり、荷車が置かれていた。オリジナルのタイル屋根は、スレートに葺きかえられていた。」
この家は1940年代に村議会の議場として使われ、後にコルホーズの所有となりました。1996年に火事に会い、状態が悪化しました。
写真は2021年10月16日に撮影されました。
第2位
「建物遺産」第2位は、ザボリージャ州ライスケ村にある、古いドイツの家のシリーズです。写真は Kostiantyn Antonetsにより2019年3月30日に撮影されました。
建物は村の西部にあります。公式リストには登録保護されていません。この特別カテゴリーに参加するモチベーションについて、Kosntiantynは「これ(ドイツ遺産)は私たちの歴史の本質的なものです」と語っています。
第3位
第3位になったのは、ドニプロ市のファブラ通り16番地にある、邸宅(建築家ディートリッヒ・ティッセンの家)の写真です。Yuri Petruniakが2020年10月1日に撮影しました。邸宅は地元の重要な遺産です。アールヌーボー様式で建てられています。1905年にD.K. ティッセンがデザインしました。1912年から1919年には医師O.H. ヘルビルスキーの個人診療所として使われました。近くには1914年頃、4階建ての家が建てられました(ファブラ通り14番地)。
産業遺産
第1位
このカテゴリーでの第1位は、ヘルソン市ヒムナジチナ通り36番地にあるビール醸造所の写真です。これは地元で重要な建築遺産です。撮影は Oleksandr Malyon。
ラール醸造所は19世紀後半に建てられ、ドイツ製の設備が導入されていました。工場の経営は1921年以降悪化しました。現在は私有地にあり、稼働していません。写真は2021年4月24日に撮影されました。
第2位
第2位の写真は、ザポリージャ州ドリンスク村のシュルツ工場の風景です。Oleksandr Malyon により2021年10月16日に撮影されました。
書籍『メノー教徒の建築。過去から未来へ』によると、工場は1880年から1885年の間に建てられました。ここでは脱穀機を含む、様々な農業用機械が生産されていました。1893年から工場は「D.B. シュルツ&エルベン」工場として知られるようになりましたが、それは共同経営者ペーター・コップの息子たちが、ディートリッヒが彼の未亡人と結婚した後、一緒に働くようになったからです。オフィスビルが追加され、ディートリッヒが亡くなると、彼の息子ペーター・D・シュルツが1908年から事業を引き継ぎました。1910年ころに南棟に2階が増築されました。そのころに両棟の間に塔が建てられました。ペーターの弟のヤコブ・D・シュルツが1914年に経営者になりました。工場は後に国有化されました。
工場については次のように書かれています。「……ダーク色の煉瓦で建てられ、アーチ型の装飾で飾られた半円形の大きな窓がある。2棟の窓は不規則な形をしていて、煉瓦色と装飾の細部は完全に調和がとれている。建物は村の他の建物と同じ煉瓦が使われており、地元産の煉瓦が使われていた証拠である。棟の間の塔は内戦で損傷したが、後に再建された。屋根の棟は、南北に伸びていたが、東西に変えられた。オフィスビルの屋根裏部屋は壊され、金属の屋根はアスベストとセメント製になった。」
1996年から、工場の建物の一部は種子の洗浄に使われています。建物は公式には国の保護を受けていません。
第3位
ザポリージャ州の2つの作品が第3位になりました。これはトクマク市のドゥバンの製粉所と、ポロヒ市のゲルハルト・ワラのガラス工場です。
トクマク市のドゥバンの製粉所の写真は、Serhii Onkovが2021年7月17日に撮影しました。建物は缶詰工場の一角にあり、国の保護は受けていませんが、ドイツ人メノー派教徒の建築モニュメントです。市内の多くの写真を参加者のブログで見ることができます。トクマク市は現在ロシアの占領下にあります。Serhiiは特別カテゴリーに参加した理由について、「ドイツ遺産の何枚かの写真があるが、それらは公式リストに掲載されていない」からと言っています。
ポロヒ市のゲルハルト・ワラのガラス工場の写真は、Kostiantyn Antonetsが2019年4月20日に撮影しました。工場はサンドミルスキー兄弟のガラス工場、またヤコブ・ワラのガラス工場としてしられています。建物は保護されていません。市は2022年3月からロシアの占領下にあります。
宗教遺産
第1位
Faina Zelenayaが2020年11月29日に撮影したシリーズ写真が第1位になりました。それはオデッサ州リマーンシケ村にある、聖三位一体聖堂を描写したものです。
聖三位一体聖堂はドイツ系カンデルのコミュニティのカトリック教会で、地元の重要な建築遺産です。ツェルツ近郊にある聖母被昇天教会と違い、黒海北部で煉瓦の代わりに広く流通していた石灰岩で1892年に建てられました。カンデルとツェルツは、現在リマンスケ村になっています。オデッサのドイツ人入植者たちは、1919年夏と秋に、穀物徴発と赤軍への動員に抵抗した反乱軍を組織しました。デニーキンの義勇軍が南ウクライナに進駐してきた後、ドイツ人達は特別入植者隊を組織し、赤軍の力を大きく弱体化させました。抵抗が失敗すると、ツェルツの聖母被昇天教会とともに聖堂は閉じられました。現在廃墟となっています。
ソ連時代に建物は穀物倉庫として使われましたが、後に内部がひどい火災に遭い、聖堂は完全に破壊されました。屋根は落ち、壁と柱だけが残りました。現在は地元の寄宿学校の石炭庫として使われています。
第2位
このカテゴリーの第2位は、ザポリージャ州テルスャンカ村のドイツ教会の写真です。Kostiantyn Antonetsが2020年10月24日に撮影しました。
テルスャンカのドイツ教会は地元コミュニティの経費で建てられました。建築委員会には地元の牧師フリードリッヒ・ハマン、長老(スタロスタ)のシュナイダー、地主のミュラーなどがいました。建築家トゥロヴェッツが委員長でした。教会は1911年6月5日に正式オープンし、1934年まで活動していました。最後の牧師は捕らえられて銃で撃たれ、ドイツ人家族はカザフスタンに移住させられました。建物は再建され映画館となり、教会内部は舞台、玄関、楽屋付きの映画ホールに改装されました。建物の外観はルター派教会風です。後にそこは村の文化センターとなりました。遺跡として保護されてはいません。
第3位
第3位の写真は、ザポリージャ州ミコライ=ポール村にある、メノー派教徒の礼拝所の写真です。Oleksandr Malyon により2021年10月15日に撮影されました。
村は1870年にドイツ人入植者により開かれました。ミコライ=ポールのドイツ人入植地の1886年のデータでは、33世帯199人が住んでおり、メノー派教徒の礼拝所、学校、車輪工場がありました。建物は遺跡として公式に登録されていません。
その他の遺跡
第1位
2枚の写真がこのカテゴリーで1位になりました。1枚目はハルキウ州シャリフカ村にある宮殿群の外観で、2枚目はそのインテリアです。Oleksandr Malyonが2021年5月16日に撮影しました。
シャリフカの宮殿群は、国の重要建築遺跡群です。地主のオルホフスキー、ドイツ出身のゲーベンシュトライター兄弟、そしてケーニヒ夫妻がこの土地(宮殿、公園、使用人建物など)を所有しました。建物群は最後の所有者、レオポルド・ケーニヒ(砂糖王)と彼の息子ユリウスにより、1881年から1917年にかけて形成されました。この土地は70ヘクタールにまで拡大しました。
1923年に土地はスヴェルドロフソフホーズの所有となりました。1925年から2010年まで、建物群には結核専門のサナトリウムが置かれ、2008年まで活動していました。全ての患者は2009年初頭にズミイフ地区の療養所へ移動しました。改装が計画されましたが、予算はついていません。公営企業「ズナヒツカ」が宮殿の財政を支援しています。
公園の中心は、高い丘の上に建てられた2階建ての宮殿です。ゴシック様式の外装と内装は、豪華で、部分的に保存されています。タイル貼りのストーブ、壁面の複雑な鋳造、樫のパネル、木製の大階段などです。この宮殿はウクライナで最古の宮殿遺産です。
インテリアの写真はVolodymyr Bondar が2018年4月30日に撮影しました。
宮殿には26の部屋と3つのホールがあります。広い居間、樫の木製の図書ラウンジ、かつてのビリヤード部屋(1階)、大階段、大舞踏会室といくつかの居間(2階)は建物中央部にあり、二つの塔が目印です。それは宮殿の中心で、素晴らしい装飾となっています。壁画、天井灯、白とピンクの大理石の暖炉、色タイルで飾られたストーブ、主階段と図書室にある木製のカーブした戸棚、これらはケーニヒ男爵の時期にビリヤード室にありました。
第2位
キーウにあるザボロフスキー門の写真が、このカテゴリーの第2位になりました。Ihor Vynnychenkoにより2012年7月20日に撮影されました。
この門は国立保護区「キーウの聖ソフィア大聖堂」の一部で、都市計画、建築、歴史における国の重要文化財であり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。ザボロフスキー門は、地下鉄のゾロティボロタ駅からキーウ中心街へ入る、西側の正面入口です。それはウクライナのバロック様式の代表的一例です。聖ソフィア大聖堂地区の大規模な修復が行われた1746年に建造されましたが、おそらく北ドイツ出身のヨハン・ゴットフリート・シェーデルが、キーウ大司教ラファエル・ザボロフスキーの委嘱で設計しました。彼は芸術に造詣が深かったので、その名前が使われました。2007年から2009年にかけて、UNESCOの許諾により建物はオリジナルの形式に改築されました。
第3位
Oleksandr Malyonが、ザポリージャ州ミコライ=ポール村のドイツ人学校の写真シリーズで第3位を獲得しました。
ここは最初農業学校でしたが、産業集団化後にコルホーズの学校になりました。現在は、中等学校として使われています。建物は遺跡として保護されてはいません。
戦争で破壊された遺跡
第1位
ヘルソン州ズミーウカ村の、聖使徒ペトロとパウロ礼拝堂の写真が第1位になりました。Serhii Onkovにより2020年7月20日に撮影されました。
2024年1月5日のロシア軍の砲撃により、教会は被害を受けました。
Photo: © National Police of Ukraine, CC BY 4.0
第2位
ザポリージャ州オリーヒウ市シェフチェンコ通りにある、ヨハン・ハインリッヒ・ヤンツェン邸の写真が第2位になりました。Kostiantyn Antonetsが2020年1月7日に撮影しました。
ハインリッヒ・ヤンツェン邸は、19世紀後半の建築で、オリーヒウ市議会として使われました。2階建ての煉瓦造りは洗練された装飾が施され、多くの芸術要素が組み合わされています。
ハインリッヒ・ヤンツェンはドイツ人メノー教徒の一人で、ウクライナ南部に移住しました。一族は蒸気製粉所、病院、メノー教徒の子どものための学校を町に造り、商店や映画館の建築にも参加しました。ハインリッヒ・ヤンツェンは町の初代町長で、25年間(1874年から1899年まで)オリーヒウ町長に選ばれ続けました。建物は遺跡として保護されてはいません。
2022年5月21日、邸宅はロシア軍の砲撃で被害を受けました。2階の壁と屋根の一部は崩壊し、正面ドアは破壊され、壁は瓦礫になりました。
Photo: © Zoda.gov.ua, CC BY 4.0
第3位
第3位を獲得したのは、ザポリージャ州フリャイポーレ市に1894年に建てられた象徴的モニュメントである、シュレッダーの工場「ナディイア」(ウクライナ語で「希望」)の写真です。Serhii Onkovが2021年7月18日に撮影しました。
「ナディイア」工場は、実業家アントン・エルランナーの設計・建築工場により建てられました。後にそれは商人サムソン・サクサハンスキー、1908年からはメノー教徒ダビッド・シュレッダー、1915年には「ケイマク」協会が所有しました。建物はソ連時代とロシアのウクライナ侵攻までは、工場として使われました。
建物は1917年から1921年のウクライナ革命や、第二次世界大戦を生き延びて以来、大きな変化はありませんでしたが、ロシアの占領時に大きな被害を受けました。2022年6月22日のロシア軍砲撃で被災し、2024年2月17日夜のロシア軍攻撃で破壊されました。破壊された工場の最初の写真は、歴史学者セルヒー・ズヴィリンスキーがフェイスブックグループ「Huliaipole Antiquities」に投稿しました。
Photo: © Serhii Zvilinskyi, “Huliaypole Antiquities”, CC BY-SA 4.0
2023年からの特別カテゴリーの全ての写真は、ウィキメディア・コモンズで見ることができます。
参照:
ウクライナ・ドイツ人会議(CGU)は、ウクライナのドイツ系民族の権利を代表する主要な組織です。会議の詳細はウェイブサイトをご覧ください。
背景:
- ウィキペディアの特別カテゴリーページ(ウクライナ語)
- Wikimania 2024 poster on special categories of Wiki Loves Monuments Ukraine contest
この記事の執筆のために利用したウィキペディア記事 “Holy Trinity Cathedral in Lymanske”, “German church in the Tersianka”, “Mykolai-Pole in Zaporizhzhia Oblast”, “Park in Sharivka”, “Sharivka Palace”, “Zaborovskyi’s Gate” and “House of Heinrich Jantzen”.
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