稲門ウィキペディアン会の Eugene Ormandy です。本稿では、yomoyomo「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」におけるウィキペディア関連の記述を紹介し感想を述べます。
書誌情報
- yomoyomo「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」『WirelessWire News』2013年9月30日。https://wirelesswire.jp/2013/09/34490/
内容
今回取り上げるエッセイは、澁川祐子『ニッポン定番メニュー事始め』および、それに対する速水健朗の書評「Google、Wikipedia、Yahoo!知恵袋時代に本を書くということ」に対する書評です。文中には、ウィキペディアに関連する記述がいくらかあったので、簡単に紹介します。
まず著者は、澁川の著作について以下のように絶賛します。
本書が扱う日本における人気メニューの起源と歴史というテーマは、類書がないわけではないでしょうし、それこそググった結果と Wikipedia をつまみぐいした内容をあわせれば原稿の体裁を整えることはできるのかもしれません。実際、その程度のつまみぐいで書き飛ばされたと思しき記事がウェブでは大手を振っています。
もちろん本書はそうしたレベルと一線も二線も画すのですが、面白いのは「元祖」とされる店から直接話を聞くことはしないというのを方針にしたことです。
本書の「はじめに」を読み、ウェブ連載当時から著者の文章に感じていたストイックさの理由が分かった気がしましたが、実際には「元祖」とされる店から証言を得たほうが遥かに楽だったでしょう。それも取材には違いないし、それにそうしたお店で聞ける話は「いい話」であることが多く、それに素直に乗っかったほうが読者受けがよいかもしれません。
しかし、著者は「元祖」とされる店が喧伝するストーリー、並びにそうした情報が集積されたネットの情報も同等に信用せず、ナポリタンやコロッケの章が顕著なように定説を疑うところから始め、愚直に文献をあたることで定番メニューの起源を探ります。
また、澁川の著作に対する、速水健朗の書評「Google、Wikipedia、Yahoo!知恵袋時代に本を書くということ」を取り上げ、著者は「集合知との競争」について述べます。
本書を読んでちょっと考え込んだと書きましたが、それは言うなれば、速水健朗さんが書評に書いていた「Google、Wikipedia、Yahoo!知恵袋時代に本を書くということ」の意味です。
本連載は「情報共有の未来」というタイトルですが、ワタシ自身性格が悪いのでニコラス・G・カーやジャロン・ラニアーなど Wikipedia に批判的な人の言説も好んで取り上げるものの、今や死語に近いですが Web 2.0 以降の集合知(本来なら「群衆の知恵」と「集団的知性」の区別をもう少し厳密にやるべきですが)を前提とするウェブサービスは、問題はあれども肯定的にとらえています。
しかし、それが大手を振る時代に書籍を書くとはどういうことなのだろう、自分の原稿はそれに見合う付加価値を与えているだろうかと考えてしまうところもあります。
安易なブログやウェブ連載の書籍化も現状少なからずあり、そうした著者にとって書籍はキャリアにおける箔付け程度の意味合いしかないのかもしれませんが、そうした新刊が横行する中で光るのは本書のような面倒くささを引き受け、しかるべき「文脈」を提示する本だったりします。飛躍的に能力を拡大するコンピュータに人間は負け始め、雇用を失うという問題を扱った『機械との競争』ではありませんが、我々物書きは「集合知との競争」に晒されているのかもしれません。
感想
以下、本稿を読んで感じたことをつらつらと書き連ねてみます。
あえて一次情報にアクセスしない姿勢
まず、「『元祖』とされる店から直接話を聞くことはしない」という澁川の姿勢は、非常にウィキペディアン的だなと感じました。というのも、ウィキペディアンも澁川同様、あえて一次資料(および「生の声」)を用いないからです。以下、日本語版ウィキペディアの方針「Wikipedia:独自研究は載せない」より引用します。
ウィキペディアの記事は、公表済みの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。二次資料や三次資料は、記事の主題の特筆性を立証するため、および一次資料の新規な解釈を避けるために必要です。ただし、一次資料は注意深く使えば出典とすることができます。記事が一次資料だけを出典としている状態は避けねばなりません。解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべきであり、それらの記述に際して一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません。
日本語版ウィキペディア「Wikipedia:独自研究は載せない」2024年5月9日 (木) 09:49 (UTC) 版。https://w.wiki/C6K4
余談ですが、『読んでいない本について堂々と語る方法』を愛読書とする私は、上記の方針をとても気に入っており、「実際に経験していない事柄についてのウィキペディア記事を文献のみを頼りに書く」というゲームをしばしば楽しんでいます。つまり、行ったことがない山や、食べたことがない食べ物についてのウィキペディア記事を書くのです。なお、これらの編集については「興味がないトピックに関するウィキペディア記事を編集する理由」というブログ記事にまとめていますので、興味がある方はご覧ください。
ライターに発破をかけるウィキペディアン
また、著者yomoyomoさんの「我々物書きは『集合知との競争』に晒されているのかもしれません」という指摘については、我が意をえたりと思いました。なぜなら、私が集合知の結晶たるウィキペディアを編集するモチベーションの1つが「ライターのレベルの底上げ」だからです。
多くの方に共感していただけるかと思いますが、私は何度もライターに失望してきました。ろくに情報収集もせず、出典も示さず、周りの人間から仕入れた噂話と下手なポエムを陳列したエッセイを読むたび「果たしてこれがプロの仕事なのか?」と悲しい気持ちになります。もちろん、全てのライターが酷いわけではありませんが、このような思いをしたのは1度だけではありません。
私は、レベルの低いライターへのカウンターとしてウィキペディアを編集しています。「特定のトピックについて、出典を示しながら情報をまとめるという単純作業は、『Wikipedia:出典を明記する』や『Wikipedia:独自研究は載せない』に基づいて私がやっておきます!また、それらは『フリー』な形で公開しておくので、プロのライターの皆さんは、独自の見解を述べたり、マニアックな情報を示したり、複数のトピックを横断的に論じたりといった、ウィキペディアンには不可能な高度な作業をしてくださいね!」と思いながら、私は編集ボタンを推しているのです。
真摯な愛とウィキペディア
そして本書を読んでワタシが思い出すのは、「食べ物に対する愛ほど真摯な愛はない(There is no love sincerer than the love of food.)」というバーナード・ショーの言葉です。本書はそのもっとも真摯な愛に相応しい本であり、本文でいろいろ書きましたが、最終的にはそこに行き着きます。
yomoyomo さんのまとめを読んで、私は胸に手を当てました。食べたことがない食べ物についてのウィキペディア記事を書いている私は一体……。少なくとも、ウィキペディアの執筆に真摯な愛は必要ないということを再認識しました。
まとめ
yomoyomo「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」におけるウィキペディア関連の記述を紹介したのち、一介のウィキペディアンの視点から感想を述べました。あえて一次資料を使用しないスタンス、ライターと集合知の関係、そして食べ物への愛憎と執筆など、個人的には大変興味があるトピックについて好き勝手なことを書きました。本稿がどなたかのお役に立てば幸いです。
なお、yomoyomo さんのエッセイはおしなべてクオリティが高く、インターネット史のアーカイブとしてきわめて貴重だと私は思っています。インターネット、そしてインターネットをめぐる人々に関心がある方には、ご一読をお勧めします。
余談中の余談
速水健朗のポッドキャスト『速水健朗のこれはニュースではない』に箕輪厚介が登場したエピソード「「カルチャー系界隈」って、なんでやっかいなんですかね?」において、箕輪が「(速水の)洞察の仕方とかがすごく自分に合う。kamipro 感がある」と述べたのに対し (3:25)、速水が「分裂後に書いたりしてました」と応じたのを受けて (3:59)、ひとりガッツポーズを決めました。これからも世の中とプロレスし続けていこうと思います。
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