ウィキペディアンの読書記録第9弾。今回は稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』における、ウィキペディアに関する記述を紹介します。
ウィキペディアに関する記述
本書では、ウィキペディアが何度か登場していました。
その1 内容さえわかればいい
「話題にはついていきたいが、観るべき作品が多すぎるので、倍速視聴をする」という視聴態度を紹介するセクションで、ウィキペディアが登場していました。
主に10~20代前半の若者の間で、倍速視聴は以前から当たり前だった。地上波ドラマを「忙しいし、友達の間の話題についていきたいだけなので、録画して倍速で観る」「内容さえわかればいいからざっと観て、細かいところはまとめサイトやWikipediaで捕捉する」。そんな感じだ。
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ−−コンテンツ消費の現在形』光文社、2022年、21ページ。
百科事典プロジェクトであるウィキペディアが「細かいところを捕捉する」サイトとして捉えられているのは興味深いなと個人的には感じました。なお、フィクションのウィキペディア記事におけるあらすじやネタバレの扱いについては、以下のガイドラインが作成されているので、興味がある方は是非ご覧ください。
- [[Wikipedia:ネタバレ]]
その2 鑑賞か情報収集か
映画の「鑑賞」と「情報収集」との違いについて説明するセクションでも、ウィキペディアが登場していました。
作品によって「鑑賞」で立ち向かうのか「情報収集」で立ち向かうのかを自覚的に使い分けている人は、大学生にも何人かいた。
鑑賞目的ではなく情報収集として観る。考察サイトやネタバレサイトを先に読み、犯人を知ってから本編を見始めるという行動も、その延長上にあるわけだ。
(略)
「情報収集モード」は書店の立ち読みに近い。話題のベストセラー本が陳列されている。この本はどんな内容だろう?そんな時、目次だけを読んで本文をパラパラめくって斜め読みする。そうして何十冊もスクリーニング(審査)した中で、どうしても欲しい本だけを買う。買った本だけは飛ばさずに読み、本棚にきちんと戻し、時々読み返す。
彼らは「観たい」のではなく「知りたい」のだ。脚本を勉強中だというある30代男性は、それを「Wikipediaの上位互換」だと掲揚した。
前掲書、68ページ。
私は映画が大変苦手で、観ることもほぼないのですが、映画の倍速視聴をする方の「情報収集モード」には思い当たる節がありました。なぜなら、私はウィキペディア記事を執筆するための参考文献を読むとき、完全に「情報収集モード」だからです。
参考文献を読む時に私が考えていることは、テクストの趣旨を正確に把握し、ウィキペディアに活用できる記述をピックアップし、文章の形を整えて反映することのみです。文体の妙を味わったり、執筆対象について深く知ろうとしたりすることは、ほぼありません。むしろ、テクストや執筆対象には思い入れを抱かないよう注意しているくらいです。なぜなら、そのような思い入れを抱いてしまった場合、ウィキペディアが求める中立的な編集(幻想であることは承知しています)に支障をきたす恐れがあるからです。
なお、このような私の執筆スタンスについては「興味がないトピックに関するウィキペディア記事を編集する理由」というブログ記事にまとめたので、興味のある方はご覧ください。
その3 「正解」としてのウィキペディア
映画の評論本が売れなくなっていると指摘するセクションにおいても、ウィキペディアが登場していました。
Fさんは言う。
「よく観る作品がほとんど原作ものなので、解釈がわからなかったら、まず原作を読んじゃいます」
答えは原作にある。それ以上に正しい “答え” はない。「どこかの知らないおっさんが、俺はこう思うとか書いたもの」を読んだところで、正解にはたどり着けない。謎を解くことに特化した考察サイトや、あらすじネタバレサイトや、Wikipediaの方がよっぽど親切だ。ちゃんと機能に特化している。……ということだ。
彼らは1秒でも早く “答え” にたどり着きたい。そのためには、評論は遠回りすぎる。
インターネットを検索して出てきたものの信憑性を疑わない傾向は、若者であればあるほど顕著だ。論文の出典元一覧にWikipediaをしゃあしゃあと挙げてくる学生がいるんですよ、という教授の嘆きも聞く。彼らはインターネットには “答え” が書かれていると思い、検索で出てこないものは「存在しない」と断定する。
しかし、そうなってしまうのも仕方がない。彼らはインターネットの情報が有象無象だった時代にコンピュータを使っていない、あるいは生まれていないからだ。
前掲書、228-229ページ。(余談ですが、大学教員の意味で「教授」という言葉を用いるのは不適切です)
まずは若い学生の名誉のために補足をしますが、「大人」も平気でウィキペディアを引用しています。しかも商業媒体や図書館のレファレンス業務で。そのような事例については、ウィキメディア財団のブログ Diff で紹介しているので、興味があればご覧ください。
また、ウィキペディアが、「正解」を示す資料であるかのような扱いをされているのは、興味深いと感じました。というのも、ウィキペディアは正解を示す資料などではなく、二次資料をまとめた「三次資料」にすぎないからです。以下、ウィキペディアのガイドライン [[Wikipedia:独自研究は載せない]] より引用します。
一次資料は、ある事象について、それに密接したところにある独自の資料であり、多くの場合はそれに直接参加した人によって作成されます。その人たちは、事件、歴史の一時期、芸術作品、政策決定、などについて内部からの観点を提供します。一次資料は、独立した情報源や第三者情報である場合も、そうでない場合もあります。交通事故の目撃者による話は、その事故についての一次資料です。同じように、著者によって行われた新規な実験を記した科学論文は、その実験結果についての一次資料です。日記などの歴史的文書も一次資料です。
(略)
二次資料は、一次資料に基づいてそれを作成した人物によるその人自身の考察を提供するものであり、普通は事象から一歩離れたところにあるものです。二次資料には、一次資料から得た作成者の解釈・分析・評価・論拠・構想・意見などが記されています。二次資料は必ずしも、独立した情報源あるいは第三者による資料ではありません。作成者は作成にあたって一次資料を使い、それらについての分析・評価を行っています。たとえば、ある分野における研究論文を集めて分析した総説は、その研究についての二次資料です。ある資料が一次資料であるか二次資料であるかは、文脈によって変わります。軍事歴史家によって著された第二次世界大戦についての本は、この戦争についての二次資料となるかもしれませんが、もし著者の戦争体験が含まれているのであれば、その体験についての一次資料となるでしょう。書評も、場合によって意見・総括・学術的な論評のいずれかになりえます。
(略)
三次資料は、一次資料や二次資料を総括した、百科事典などの概説的な出版物です。ウィキペディアも三次資料にあたります。多くの初学者向け・学部生向けの教科書は複数の二次資料をまとめたものであり、三次資料とみなされます。
日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:独自研究は載せない]] 2023年4月12日 (水) 01:09 (UTC) 版。
上記のようなウィキペディアの仕組みに興味のある方は、以下のページもご覧ください。
- [[Wikipedia:信頼できる情報源]]
- [[Wikipedia:検証可能性]]
- [[Wikipedia:中立的な観点]]
映画ぎらいの感想
私は映像作品の鑑賞が非常に苦手で、特に映画、ドラマ、アニメは全く受け付けません。そんな筋金入りの映画ぎらいである私は、本書を読んで「そもそも何故この人たちは無理して映画を観るのだろう」と感じました。
一応、その回答らしきものは本文で示されています。要は友達との会話についていくためです。
「結果的に1時間もかかんないくらいで観られたんですけど、もし2時間近くもかけちゃってたら、おもしろさよりも『ああ、こんなに時間を使っちゃったんだ』みたいな後悔のほうが大きくなると思う」
そうまでして時間を節約したいなら、観ないという選択肢はないのか。
「ないです。ちょっとつまんで観ておけば、誰かが話題に出した時に『ああ、観たよ』って言えるじゃないですか」
前掲書、41ページ。
「忙しい中、友達の話題についていきたいから倍速で観る」という声は、10代から20代の若者からとりわけよく聞かれる。彼らはことさらコアな映画ファン、ドラマファン、アニメファンでもなければ、それらを大量にチェックする仕事に就いているわけでもない。
なぜそこまでして、話題についていかなければならないのか。それは、若者のあいだで、仲間との話題に乗れることが昔とは比べ物にならないほど重要になっているからだ。それをもたらしたのがSNS、おもにLINEによる常時接続という習慣である。
前掲書、122-123ページ。
LINEグループは1つや2つではない。大学内では学科内の友人だけで複数。そこにゼミやサークルやバイト先。さらに高校時代や中学時代の友人。なんなら小学校時代の友人までが、LINEグループで永遠につながり続ける。
だから、観なければならない本数がとにかく多い。グループが5つあれば五様の、10個あれば十様のマストチェック作品が日々提案され続ける。しかも、それは現在放映中の番組や公開中の映画に限らない。10年前の連ドラも20年前の映画も、動画配信サービスでいくらでも観られるからだ。ここにDVDレンタルやYouTubeなどで視聴可能な作品を加えれば、その数は膨大になる。
前掲書、124-125ページ。
ここで、筆者が大学3年生のIさん(女性・大学3年生)をヒアリングした時の会話を採録しよう。
稲田 そんなにまでして話題についていきたいですか。
Iさん えっ、ついていけないと困りませんか?
稲田 何が困ります?
Iさん 人間関係で。自分だけ会話に入れないみたいな。
稲田 それはリアルの場で?
Iさん はい、学校の休み時間とか。以前、友達が NiziU で誰々が選ばれたよねとかいう話をしていたんですけど、私は NiziU を知らなかったので、「えっ、何それ、流行ってんの?」って。
稲田 「へえ、そんなグループがあるんだ。教えて」じゃダメなんですか。もしくは、「私は見ていなかった、あなたは見ていた、以上」では終わらない?
Iさん その場で私のすることがなくなるじゃないですか!私、何をすればいいんだろ、シーン……みたいな(笑)。
稲田 自分が知ってる話題を放り込めば?うまく話題が途切れたところで自分にターンが回ってきたら、「昨日のカープ見た?」って言うとか。
Iさん うーん、その話で盛り上がっているので、話題を変えるのは難しいです……。
前掲書、126-127ページ。
私は感動してしまいました。なんと真面目で、なんと文化的なのでしょうか。「友達の話に『ああ、観たよ』と反応するために実際に映画を観る」だなんて、映画嫌いの私からしたら到底考えられない誠実さです。なんと友情に厚い御方なのでしょう。友人から「アンタが映画苦手なのは知ってるけど絶対この作品だけは見て!」と熱弁されても、頑なに無視し続ける私とはえらい違いです。
また、「映画の話をする場合、実際にその映画を観ていなければいけない」という信念にも、その真面目さを伺い知ることができました。友人から映画の話をされても「へぇ~どんな映画?」「いつ観にいったの?」といった、映画を観ていなくてもできる上っ面の質問を続けることで、会話をやり過ごすことしか考えていない私とは、まさに月とスッポン、鯨と鰯、駿河の富士と一里塚。
ちなみに、怠惰な私の愛読書は、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』です。読書について論じた本ですが、映画鑑賞にも当てはまる面はあると思うので、いくつか引用します。
ある本について的確に語ろうとするなら、ときによっては、それを全部は読んでいないほうがいい。いや、その本を開いたことすらなくていい。むしろ読んでいては困ることも多いのである。ある本について語ろうとする者にとっては、とくにその内容を説明しようとする者にとっては、その本を読んでいることがかえって弊害を招くこともあるのだ。このことを私は本書で何度も力説するはずである。この弊害を人は軽視しがちなのである。
ピエール・バイヤール著(大浦康介訳)『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房、2016年。12-13ページ。
本書の目的は、読んでいない本についてコメントを求められるという、この厄介なコミュニケーション状況に対処するテクニックを提案することだけでなく、そうした状況の分析にもとづいて、ひとつの読書理論を構築することでもある。本書では、一般に人がいだく理想的な読書のイメージとは裏腹に、読書行為に見られるある種のあいまいさ、いい加減さ、意外性などに注目することになるだろう。
前掲書、15ページ。
『映画を早送りで観る人たち』に話を戻します。倍速視聴をする若者たち、すなわち「友人から勧められた映画は実際に観る」というきわめて誠実な態度の若者たちは「LINE グループで友人から常に作品がレコメンドされ続ける」という状況に置かれていると本書は指摘していますが、私はその文化レベルの高さに驚愕し、未来への希望すら抱いてしまいました。なんと豊かなのでしょう。なんと知的好奇心に満ち溢れているのでしょう。教養の復権なるものを願う人々は涙を流して喜ぶに違いありません。
それにひきかえ、私の惨状たるや目も当てられません。一応、私は本書が言うところの「若者」で、友人知人の数もそれなりに多く、早稲田大学というカルチャーオタク(自薦他薦を問わない)が集まる大学の出身であるにもかかわらず、本書で示されているような「レコメンド地獄」には陥ったことがありません。なんと愚鈍なのでしょう。なんと自堕落なのでしょう。今後は友人関係を見直し、優秀な方が集う高級オンラインサロンに貯金をブチ込もうと思います。
つらつらと書き連ねましたが、もちろん全て皮肉です。「友達と映画の話をするために、実際にその映画を観る真面目な若者」や「オススメの映画が飛び交う文化的なグループ LINE」は、果たしてどの程度一般化できるものなのでしょうね。私は「著者はストーリー立てて説明しやすい特殊な事例をチェリー・ピッキングしているのではないか」とすら感じました。
特に、LINE についての指摘は、注意深く読む必要があると思われます。なぜなら、「LINE で数多くの作品がレコメンドされる」という主張の根拠が曖昧だからです。たしかに「2021年一般向けモバイル動向調査」や博報堂社員のコメントが紹介されていますが、前者は「10代の94.6%、20代の92.9%がスマホや携帯電話(ガラケー)でLINEを利用している」と指摘しているだけですし(123ページ)、後者は「大学生を中心とした若者世代にとっては、仲間の輪を維持するのが至上命題。とにかく共感しあわなければいけない」という趣旨の指摘をしているだけです(124ページ)。私は「著者はウィキペディアで言うところの『情報の合成』をしているのではないか」と感じました。
もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。
日本語版ウィキペディア [[Wikipedia:独自研究は載せない]] の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」節より引用。2023年4月12日 (水) 01:09 (UTC) 版。
参考までに、一応「若者」である私の例を共有しますが、「 LINE で友人たちからオススメ作品を紹介される」ということはほとんどありません。私を含む周りのカルチャーオタクは大抵、Instagram のストーリー機能で作品を紹介するのみという印象です。他の方が考えていることはわかりませんが、少なくとも私は「LINE という『返信が求められるメディア』で友人に作品を勧めるのは、強制しているようであまり気が進まない。ストーリーに一方的に投稿して、興味を持った人がコメントしてくれたらラッキー」程度の気持ちで投稿しています。
なお、調査時期の違いなどに注意する必要がありますが(本書は2021年のネット記事をもとにした書籍で、2022年に刊行されています)、「若者は LINE ではなく Instagram で連絡を取り合っている」と指摘する記事も散見されますので、参考までに紹介します。
- 「LINEを使うのは家族とだけ! Instagramが10代のインフラといえる理由」『週プレ NEWS』2023年6月29日。2023年7月27日アクセス。ウェブアーカイブはこちら。
- 「「投稿が見られる」「返信の義務感がない」 若者たちが「連絡手段はLINEよりインスタがいい」という事情」『マネーポストWEB』2023年5月22日。2023年7月27日アクセス。ウェブアーカイブはこちら。
- 中将 タカノリ「高校生にとってのLINE=おじさんおばさんとの連絡ツール説 「InstagramのDMが基本らしい」」『神戸新聞NEXT』2022年9月19日。2023年7月27日アクセス。ウェブアーカイブはこちら。
ウィキペディアンからのお誘い
とはいえ、もし「友達との会話についていくためには、LINE でオススメされた作品を全て観なくてはいけない」と悩み、仕方なく倍速視聴をする人がいるとすれば、お伝えしたいことが2つあります。
- 実際に映画を観なくても、映画の話はできますから安心してください。無理して観る必要なんてありません。
- 「情報収集」としての倍速視聴をしていた時間を、ぜひウィキペディアの編集に使ってみてください。倍速視聴を通して培った「情報収集」スキルは、ウィキペディアの編集に大いに役立ちます。「タイパ(タイムパフォーマンス)」を最重要視する方も、きっと満足していただけると思います。ウィキペディアの編集ほど「意義のある」ことはなかなかないので。
まとめ
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』における、ウィキペディアに関する記述を紹介したのち、その内容を批判し、最終的には「実際に観なくても映画の話なんかできるんだから、それよりも倍速視聴を通して身につけた『情報収集』スキルを活かしてウィキペディア編集しようぜ!」というきわめて傲慢なアジテーションを行いました。
本書の批判は散々行いましたが、最後にもう一点。全体を通して言えることですが、本書は「倍速視聴に固有の面白さがある」という可能性を想定できていないのではと感じました。
私は音楽作品のリミックスが大好きなので「本来想定されている方法とは違うやり方で作品を受容する」という行為には馴染みがありますし、それ自体非常にクリエイティブで面白いと思っています。そのため「倍速で映画を観ること自体がとても面白いのだ」という人がいても、なんら驚きはありません。まあ、私は再生速度にかかわらず、そもそも映画が嫌いなので、共感はできませんがね。
もちろん、著者は単に倍速視聴を非難しているわけではなく、視聴のいちバリエーションとはみなしているようです。しかし、倍速視聴は実利的な理由で行われていると断定しています。
「芸術とは作者が想定していない鑑賞のされ方も許容しうるものだ」という謂は認める。そこでは、フランスの批評家ロラン・バルトなどが提唱した「テクスト論」、すなわち「文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想」が想起されるかもしれない。いったん書かれた文章は作者から切り離され、自律的なもの(テクスト)となってさまざまな読まれ方をする、というわけだ。映像作品をこれに当てはめる手もあるのではないか?
しかし、少なくとも本書で言うところの倍速視聴者が、そのように能動的な芸術鑑賞態度をもって倍速視聴をあえて選んでいるとは考えにくい(このあとの第1章のヒアリングからも、それが伝わるだろう)。彼らの動機の大半が「時短」「効率化」「便利の追求」という、きわめて実利的なものであるのは明白だ。
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ−−コンテンツ消費の現在形』光文社、2022年、34ページ。
映画もドラマも早送りを前提として撮っていないし、書いていない。それは、漫才師がコンマ1秒単位で間を計算して披露するネタを倍速で観てほしくないのと同じだ。
しかし、それを指摘したところで倍速視聴積極派は言う。「どう観ようが勝手」「観方を押し付けるな」。作り手が倍速視聴に嫌悪感を示していても、関係ない。序章で触れたテクスト論、「文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだ」とする大層な鑑賞法ではない。きわめて手軽なピュアネス、「僕・私にとって、もっとも快適な形で作品を提供しない作り手が悪い」という気分すら見え隠れする。
前掲書、182ページ。
新しい方法というやつはいつだって、出現からしばらくは風当たりが強い。
目下のところ、倍速視聴や10秒飛ばしという新しい方法を手放しで許容する作り手は多数派ではない。”良識的な旧来派” からは非難轟々である。
しかし、自宅でレコードを聴いたり映画をビデオソフトで観たりといった「オリジナルではない形での鑑賞」を、ビジネスチャンスの拡大という大義に後押しされて多くのアーティストや観客が許容したのと同様に、倍速視聴や10秒飛ばしという視聴習慣も、いずれ多くの作り手に許容される日が来るのかもしれない。
我々は、「昔は、レコードなんて本物の音楽を聴いたうちに入らないって目くじらを立てる人がいたんだって」と笑う。しかしそう遠くない未来、我々は笑われる側に回るのかもしれない。
「昔は、倍速視聴にいちいち目くじらを立てる人がいたんだって」
前掲書、290ページ。
かえす刀でもう一点。これは「実利的な倍速視聴」への懸念と表裏一体だと思いますが、著者は「映画を『通常の方法で』鑑賞する」ことを神格化しているように思えてなりません。『読んでいない本について堂々と語る方法』が指摘した、読書の「あいまいさ、いい加減さ、意外性」は、映画鑑賞にも当てはまるでしょう。著者は、実利的な倍速視聴者に「『僕・私にとって、もっとも快適な形で作品を提供しない作り手が悪い』という『きわめて手軽なピュアネス』」が見え隠れすると指摘していますが、「映画を『通常の方法で』鑑賞する」という行為を信頼し切っているという点では、著者も負けず劣らずピュアだと思います。
画面に映っている美しい自然や人の営みそのものを「ただ堪能する」のも、映像作品の醍醐味だ。ディズニーランドでは、乗り物に乗っていなくても、パーク内にただいるだけで楽しい。あるいは絵画や写真鑑賞のように、描画・撮影された対象物の美しい配置・構図・色合いをじっくり眺め、それらがどんな主題の比喩になっているかに思考をめぐらせる。
しかし、10秒飛ばしや倍速視聴では、それらを汲み取りきれない。アトラクションからアトラクションの移動時に目隠しをされては、夢の国を堪能したとは言えない。自転車で美術館内を回るのは、芸術鑑賞ではない。
前掲書、32ページ。ちなみに私は「自転車で美術館内を回るなんて超楽しそう!」と思いました。
疑問に思う点、批判すべき点は多々ありますが、「読んだ後に何かしらの感想を言いたくなる」という点において、本書は非常に興味深い本だと思います。映画が好きな人も、ウィキペディアが好きな人も、私の論考にムカついた人も、ぜひ一度お読みになることをお勧めします。さらに気になった方は『読んでいない本について堂々と語る方法』もぜひ。
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