能登半島地震の被災地訪問:2月の体験記〜アーキビストとの模索

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2024年2月、私は石川県加賀市で活動する映像ワークショップの皆さんと、能登半島地震の被災地を訪問した。今回の訪問は自身にとって特別な経験となった。これまで発災から1カ月半の現地に入った経験は私にはなく、その現状に驚きを隠せなかった状況だった。今回の訪問で見た光景、感じた感情、そして学んだ教訓について、今回の投稿でみなさんに共有したい。

なぜ、私が能登半島を訪れることにしたのかについては、以前の投稿をご覧いただきたい。

初日、河北潟と七尾へ

北陸新幹線の終着駅だった金沢市街にある8番ラーメンで昼食を済ませた後、最初に目指したのは七尾市だが、その途中に液状化現象が特に大きかった、かほく市内灘町などを経由して向かうことにした。経由した河北潟のエリアは埋立地や元々砂丘のエリアに住宅を建てていることからその影響は大きくなった。訪問したかほく市大崎区では、道路に限らず神社もほとんどの建造物が倒壊してしまっていた。

Sakakibara shrine 2024-02-15(1) as.jpg on Wikimedia commons / Photo by Araisyohei / CC-BY-4.0

この日は七尾市まで車を進めた。金沢から七尾市まで距離にして50キロメートル、約2時間の移動であった。それは、七尾市の現状をヒアリングするために、七尾市役所で文化財の担当部署を訪れるためだ。ありとあらゆる建造物が倒壊してしまって途方もない状況に陥っているという話を伺うと同時に、各地域からは逐次連絡が入り、今後の修繕をどうするのか、また文化庁の対応について質問があったりと大変な状況であった。ただ、悩ましい部分もあるという。それは、被災した多くの古い家屋の中にある多数の史料の扱いだ。まずは処分をしないで欲しい、とお願いすることはもちろんだが、そうなると次のミッションは、どこまでが文化財ないし保管史料とするのか、という枠を決めないといけない点だという。各地の墓石・石像仏は壊滅的な被害で、神社の鳥居・灯篭・狛犬はほとんどが倒れてしまっている。また屋根瓦の被害も多く発生した。そのような状況で、能登はどこの地区も人口減少が著しく、つまり、氏子も少なくなっている中で復旧できるかどうかがわからない。そうなると、今までの集落の姿と大きく変貌するということは容易に想像できた。実際、和倉温泉地区に車を走らせたが建物ごと傾いてしまったものも多くあった。

その後、夜を迎えた七尾駅にも足を運んでみた。閑散とした駅は、水道が復旧していない状況だったこともあり、トイレは仮設、列車も一部列車や区間運休だった。構内に足を踏み入れると、路盤はズレており、1番線ホームは使用中止。まだまだ復旧には時間がかかるだろうな、という印象であった。

Nanao station 2024-02-15(1) as.jpg on Wikimedia commons / Photo by Araisyohei / CC-BY-4.0

二日目午前、災害拠点になっている穴水駅、さらに珠洲市内まで

翌朝8時、海岸線を走る国道249号で七尾から北上を始めた。道路は一部陥没し修復した跡が残っていたが、映像ワークショップのメンバーであるドライバー曰く、1ヶ月前の震災から半月の段階と比較するとかなり走りやすくなっているようで、約30キロの道のりはそう長くはないが、快適さは全く以て別次元だという。

初めに立ち寄ったのは、のと鉄道線の終着駅である、穴水駅。約7千人が住む穴水町に位置する。穴水に向かう、途中の線路が分断されており、駅舎も被害の影響があったため、当時、駅は営業できておらず、中では列車を相互乗り入れしているJR西日本の社員らがのと鉄道の社員と一緒に復旧の方法を検討していた。また、駅の反対側にある道の駅には、仮設トイレと洗濯機が所狭しと並んでいた。まだ町内では断水も続いていて、災害拠点となっていたようだ。中ではボランティアや、他の自治体からのサポート職員が避難者の支援にあたっていた。

穴水駅を出発し、のと里山海道でさらに北へ車を進めた。穴水インターチェンジから、のと里山空港インターチェンジまで、その距離9キロであったが、北行きルートのみが仮復旧していた。実際に通行してみると反対方向の道路が土砂流出で通行どころか跡形すらない部分も数箇所あった。

珠洲市飯田港にある多目的ホール「ラポルトすず」に車を停め、町を歩くことにした。市役所を起点に、住宅街や商店街を歩いていく。信号はあらぬ方向に向いていて、かなりの家屋が倒壊してしまっている。見るに耐えない状況であり、全員言葉が出ない。街中を歩くと1ヶ月半が経過しても、正月飾りである「しめ縄」が玄関先に置いてある。市役所の時計は地震発生時刻で止まっている。この地域は1月1日から時が止まったままなのかもしれない。

引き続き、珠洲市図書館まで足を伸ばした。館内に入ると開放的な空間に棚が並ぶ。その空間の明るさと広さに心が洗われる。ここで多くの子どもを含めた市民が本を読んだり借りたりして過ごしているんだろうと想いを馳せる。お話をお伺いすると、建物の被害はそこまで大きなものはなく、開館できているのだそう。当日の写真はウィキメディアコモンズにアップロードしたので、後ほどご覧いただきたい。

https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Suzu_Public_Library

図書館は通常開館だったが、罹災証明書を発行するために住民の方が待機席で順番を待っていた。そこには、関東地方や関西地方の行政職員が受付やシステムへの入力業務をしていた。行政間の支援はこんなところでも生かされていることに初めて気づいた。

二日目午後、能登半島の最北端へ

市街地からさらに北上する。状況はどんどん悪化していくように感じた。正院地区の内浦街道や蛸島港線を走る。昔ながらの細い道だが、まだ瓦礫の撤去が進んではいなかった。

能登半島の最北端、狼煙地区まで進んだ。灯台があり、大きな海水浴場もあるこの地区も被害を受けた。内陸部の家屋損壊は多くはなかったものの、電気や水道などのインフラが止まってしまったことによる被害が大きかった。実際、集落に向かうための道路も寸断されてしまった。今回は、狼煙地区の避難所になっている集会所でヒアリングをさせていただいた。市街地の避難所とは違い、人数も小規模だったこともあり、住民たちは団結して食糧確保に励んだという。中でも印象的だったのは、地震による地殻変動により海底が隆起し、海岸線が広がった空間に鮑やサザエが顔をのぞいていたことから、それを収穫して美味しくいただいていたというのだ。完全に頭から抜けていたが、そもそもこの地域は漁師町で自給自足が成り立っていたのだった。

訪問時に何か手土産を持って行きたいという話は、事前打ち合わせの際からあり、自身もそのセレクトに少し頭を悩ませていたところではあったが、漁師町らしく晩酌用の日本酒を飲んで寝るのがルーティンという情報から、長野県諏訪地域のお酒を数本持参した。元々諏訪地域ではこれまで、ウィキペディアタウンを開催していたこともあり、いくつかの銘柄を味わったことがあったので、その縁もあり選ばせていただいた。

狼煙地区の避難所の状況は、テレビを中心としたメディアを通じて発信されることが多かった。実際のところ半島の最北端という土地柄、情報発信する力はそこまで大きくなかったと自治会長にあたる、狼煙区長は分析していた。その中で、報道メディアの発信力を自治会としても使っていた。復興に向けて動くなかで、やりたいことを聞くと以前撮影したことがあるという「海岸線のドローン映像」をもう一度撮影したいという話をいただいた。映像ワークショップで撮影した、実際の映像があるのでご覧いただきたい。

珠洲から七尾への帰路の途中、のと里山空港に寄った。そこにはボランティアの皆さんがテーブルでカップラーメンを食べながら、翌日の支援体制について議論していたり、警察の方が休憩していたりと、空港とは思えない状況が広がっていた。この時点では、すでに飛行機の航路は再開していたが、便数は限定されていて必要なところ以外は復旧はされていないという印象であった。

最終日、七尾から輪島へ

最終日の朝、少し早起きをして七尾の朝を歩くことにした。道の駅にもなっている「七尾フィッシャーマンズワーフ」は、入口の玄関から液状化で入ることができない。中を覗くと鉄骨などの建造物の一部が落下している様子も垣間見えた。この状況だと営業再開にはかなりの時間が必要だろうと思っていた。実際、4月末から5月上旬の大型連休の期間は一部の区画で仮営業が実施された。

七尾の市街地には、一本杉通りと呼ばれる道があり、600年以上という長い歴史を持っている。そこには多くの文化財が残っており、北前船の寄港地として発展を続けた七尾のまちのいわば中心地であった。また、郷土の祭りである「花嫁のれん祭り」も開催されてきた。しかし、この通りにあった文化財たちも倒壊してしまうなど、大きな影響が残ったままであった。

七尾を離れて輪島に向かう。目的地までは車で約2時間の道のり。山間部を抜けていく中で、のと鉄道の廃線跡も覗いて見える。車窓からは、報道で話題になっていた土石流の現場も覗くことができた。SNSで流れてきたのは、一番下流部の映像だったが、その後の報道でその広大な面積の山林が抉られてしまっていて、いかに被害が甚大だったかがわかる。

その後、輪島朝市に到着した。その悲惨さに声も出ない。地震の後に発生した火災で区画が丸ごとなくなってしまった。その空間は、まるで戦場のような、そこには正気が全く感じられない、そういう空間だった。家屋の倒壊被害が大きかった地域とはまったく違う異様な光景に目を覆わざるをえなかった。当然だが、被害は朝市に限らない。珠洲以上に建物の倒壊があちこちで起きていて、どうろもまだ仮復旧もままならない。

市街地で最も海辺にある宿泊施設は避難ビルとして設計されたこともあり、大きな被害なく建っていた。その前にある大きな広場は、支援物資の配布所になっていて、ひっきりなしに多くの車がやってくる。横には「きょうの水の配給は終了しました」という文字が貼ってあり、断水どころか給水も間に合っていない状況で、いかに非常事態であるかを感じた瞬間であった。市街地の入口にあたる、旧輪島駅の遺構に残されていた踏切とその足場には枕木が敷き詰められていたが、地震の影響で飛び上がってしまい、そのままの状態で残されていた。

能登市街地から西へ移動し門前町へ向かった。訪問したのは、景観を保護する目的で設置された「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている黒島地区である。この町は江戸時代の大半を幕府領として管理され、当時の建築物が多く残されている。その黒島地区で豪商であった角海家の屋敷もその一つである。旧角海家住宅は母屋を含めて5棟あり、二階建ての総面積は330平方メートルにも及ぶ。現在では国指定重要文化財の指定を受けているが、今回の地震で完全に崩壊してしまった。

一方、海岸に目を向けると、海底が大幅に隆起し、海岸線が広がり、漁港も隆起のために使用ができない状態になってしまっていた。このような事象は前述した狼煙地区でも同じような状況になってしまっている。

Kuroshima_fishing_port_2024-02-17(1)_as.jpg on Wikimedia commons / Photo by Araisyohei / CC-BY-4.0

地震から3ヶ月、住民の方からお話を聞く

地震から3ヶ月、4月20日に加賀市で、映像ワークショップが主催するイベント「災害ユートピアから学ぶ過疎地の未来」に参加した。そこで、珠洲市狼煙地区のカレー店の店主と、珠洲市で書籍デザインをしている方からお話を聞く機会をいただいた。それは、集落ごとに状況が大きく異なるということだ。狼煙地区とは異なり、珠洲の中心的な市街地では、避難者が多すぎて、使用可能人数を超えてしまうなどの影響も出ていたという。狼煙在住の一部の避難者は、広域避難として現在も県内の温泉地などに避難している。

別の視点で話題となったのは、文化の継承という観点である。直近数年間は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、さまざまな行事が取りやめとなってしまっていた。いよいよ今年からまつりも再開できそうという状況が見えてきていた中で、1月の地震を迎えてしまった。例えば、その祭りにしても、能登ではない他の地域でも、コロナ禍で久しく祭りができていなかったとにより、例年にはなかった怪我人や死者が出てしまった例も報道で目にして、「伝統」行事や文化とはいえ、簡単に消えてしまう可能性があることを痛感した。

能登の文化の一つとしては、風習文化である「キリコ」が挙げられる。巨大な燈籠で、長方形の形と独特の華麗な意匠が特徴だ。元々は「切子燈籠」が省略されてそう呼ばれている。各地の祭りでは、この「キリコ(写真)」が登場し、華を添える重要な役割を持っているが、地震で多くが倒壊してしまった。同時に修復や再制作に入ろうとしたところで、広域避難でその作業をする方自体がいないという状況になってしまっていることも、文化の継承が危ぶまれているという話題であった。

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また、4月21日には、同イベントで、珠洲市の被災状況を共有するFacebookグループを運営している方にもお会いすることができた。グループ自体は、以前の能登半島地震が発生した際に立ち上がったものだが、それを今回活かすことができたという。地震直後は避難情報や安否確認に関する情報を参加者からそれぞれ共有していたが、時を経過することに避難生活の支援情報などに変化していったという。しかし、地震直後は情報が乱立するなど、その対応は難しかったという。また、当時は電力も電波も全く安定しない、その先どうなるのかも予測ができないという状況だったが、東京や被災地ではない場所にいるメンバーから支援してもらい、彼女自身で対応できない時には、メンバーが動いてプロジェクトを進行していったという。グループ内で地震後に実施したアンケートでは、「安心材料になった」「メディアで報道されない実情を知ることができた」という回答が寄せられ、そこでグループの価値を見出せたという。その後、避難者が自宅に戻って生活再建を目指すことを、避難者を避難者がサポートするためのグループである「ひなさぽ」もFacebookグループから派生する形で立ち上げた。直近では、遠距離避難者が自宅に戻るための手続きに関する情報共有や、引き続き遠距離避難を続ける避難者向けの情報提供を実施している。ちなみに「ひなさぽ」の名称は、「日向サポート」の意から来ているという。

地震から5ヶ月、レポートをまとめながら思うこと

地震と津波の影響がはっきりと残った能登の状況に、私は驚きを隠せなかったことを今でも鮮明に記憶している。ある集落では建物がほぼ倒壊、道路には大きな亀裂が走った痕跡がはっきりと残っていた。移動した先には、土砂崩れの跡が点在している。これらすべてが、1月1日に起こったあの地震の強烈な力を物語っている。

大学の大先輩にあたる方が、石川県庁で仮設住宅建設の陣頭指揮にあたっている。お話を聞いていると土日も返上で仕事をされているそう。そんな中でも、能登の方は、我々が避難所を訪問した時、私たちを暖かく迎えてくれた。被災者の方々の強い生きる意志と前向きな姿勢に、私は圧倒された。能登での生活は地震の後の困難な状況に直面し続けているが、その中でも彼/彼女らは決して挫けず、前向きな姿勢で生活を続け、また遠方に避難している住民とも常に連絡を取り合い、絶え間なく前進を続けている。彼/彼女らは、地震のあともこの地に残り続け、復興の狼煙をあげる準備を続けているのだった。

地震からあっという間に5ヶ月がすぎてしまっているが、能登半島の被災地は、まだまだ復興がこれから始まる、計画段階といっても過言ではない状況だ。しかし、被災者の方々の力強さを見ていると、明るい未来への希望が見えてくる。私たち一人一人ができる支援を続けることで、その希望は現実になると信じているからだ。それは、被災地の人々を助け、彼らが再び立ち上がる手助けに直結していると信じている。

また、映像ワークショップは、アーキビストでキュレーターの明貫紘子氏を中心にして「能登半島地震アーカイブ(仮)」構想を実現すべく準備を進めているようだ。この活動にも協力していきたい。

最後に、本件訪問にあたっては、ウィキメディア財団の皆さんにも、今後のアーカイブがどうあるべきかをご相談させていただいた。毎度のことながら、多くのご相談に乗ってくださっていることに感謝しつつ、今後も「アーカイブ精神」に則った活動を続けていきたい。

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